You belong with me. 6
You belong with me. 6
そろそろ定時という頃。
西田さんから、今日はそのまま退社して病院まで来なさいと連絡が来た。
すぐに退社してタクシーで病院に向かう。まだ面会時間内、受付を通って病室へ。
いつになく緊張する。本当に道明寺は全部を思い出したのだろうか。
この時を想定していなかったわけではないけれど、あまりにも急で。
とりあえず、道明寺の状態を知るのが先だ。
もう10年。
記憶がなくても、道明寺も同じ10年を過ごしている。その半分以上はどんな生活をしていたのか、お互いに知らない。
今の道明寺の前では、あたしは秘書だ。
秘書として、道明寺の現状を把握し、西田さんと今後の話をする。
病室の扉の前で深呼吸をする。
落ち着いて、冷静に。
胸元に手を当てて、いつもの言葉を繰り返す。
胸元に当てていた手を握って、扉をノックする。
「牧野です。失礼します。」と扉を開けて病室に入った。
道明寺のいる病室は特別室と呼ばれる部屋だった。
広い病室の奥に大きい窓があり、外の景色が一望出来る。まだ日が落ちて間もない時間だが、眼下に広がり始めた都内のキラキラとした夜景は、この病室内の雰囲気と相反しているようで違和感を抱く。
この夜景もこんな時でなければ、純粋に綺麗だと思えたかもしれない。
部屋の中央にある大きなベッドに道明寺は上半身を起こして横になっていた。
傍らには西田さんが立っている。西田さんは部屋に入ってきたあたしを見たけど、道明寺は窓の外に視線を向けたまま。
「副社長、お加減いかがですか?」
道明寺はあたしが聞いても何も答えず、ただひたすら外の景色を見続ける。
無視すんなと言いたいところだけど、まだ混乱しているんだろうと、自分を諌める。
「西田さん、楓社長はもう間もなく日本に到着する予定です。副社長の代行として一件、オンライン会議に出席してもらいました。あとは全てキャンセル、後日再度連絡という形で対応しています。
副社長はいつから復帰出来そうですか?早めに再度連絡をしなければいけない取引先があります。」
「牧野。」
突然、道明寺が声をかけてきた。それでも外を見たまま、あたしを見ない。
「お前がどういうつもりか知らねぇが、道明寺財閥にいるのはお前の意思か?違うよな、ババァか親父だろ?脅されてたか?」
冷たい、声。
このあとの言葉を聞きたくないと、本能が警鐘を鳴らす。
「いいぞ、もう。俺がババァにも親父にも何もさせない。何か脅されてたんだろ?辛いって言ってたもんな。うち辞めて類んとこ行け。悪かった。
あとはもうお前の好きなように生きろ。」
心が壊れそう。
こんなにもあっさり。記憶が戻った途端に。
まだ何の話もしてないのに、こんな簡単にあたしを手放す道明寺。
記憶が戻ったからって、気持ちまで10年前に戻るわけじゃない。わかっていたことじゃないの。
耐えろ。今は泣く時でも落ち込む時でもない。
「副社長が何をお考えかは存じ上げませんが、私の人事権は楓社長にあります。副社長にその権限はありませんし、それに私が従う義務もありません。」
落ち着いて。
「西田さん、副社長はまだ記憶の混乱はありますか?明日からの予定はどうするのか決めたいのですが、状態はどうなんでしょうか。」
冷静に。
「副社長は、MRIの結果も問診も問題ありませんでした。記憶についても、失われていた牧野さんのことを思い出していますね。記憶がなかった間のことも、確認した限りでは覚えているようですので、仕事には差し支えないかと。」
西田さんも冷静だ。
「ただ、頭を打ったことに変わりはないので、一日入院していただきます。」
そう、あたしが突き飛ばした。こんなことになるとも思わずに。
「分かりました。明日の予定も念の為、午前中はキャンセルにしてましたから、午後もキャンセルにします。これから楓社長がこちらに到着されましたら、会議等の出欠席については相談して決めます。西田さんもスケジュール確認お願いします。」
「牧野!」
道明寺が怒ってる。早く出て行けとでも言うつもり?冗談じゃない!
「うるさい!」
記憶が戻ったのに話も聞かず、こんな風に放り出されるとは想定外だ。
こんな、人の話に耳を傾けようともしない男ではなかったはずなのに!
「何にも知らないくせに!ちょっと記憶が戻ったからって偉そうに言わないで!あんたがあれから10年過ごしたように、あたしにもあたしの10年があるの!知ろうともしないで勝手なこと言わないで!」
冷静になんて出来ない。落ち着いてなんかいられない。
こんなやつ、なんでこんなやつを10年も。
それでもこんなに好きなのに。
「牧野さん、少し落ち着きましょう。」
西田さんが穏やかな口調で声をかけてくる。
西田さんは高校時代のあたしと道明寺を知る、数少ない人だ。
そして、この10年を知っている人でもある。
道明寺に話も聞かずに拒否されたショックで、乱暴な言い方をしてしまった。
ここは特別室とはいえ病院で、面会時間中だけど、もう夜だ。
落ち着いて、冷静に。
「副社長、突然声を荒げてしまいまして、申し訳ありません。
脅されていたのではと言ってましたけど、そんなことはありません。
私が副社長の秘書をしていることについては、楓社長に聞かないと本当のところは分かりかねますが、…まぁでも脅しではないですけれど、似たようなものでしょう。
副社長の側に置いて、私に立場と言うものを分からせたかったのではないかと。そんなことは特に気にしてもいませんし、そうでなければ誓約書にサインすることもありませんから。」
「牧野さん、そこは違います。」
何が違うって?そこってどこよ!
一つ言ったら全部分かりますよね的なのって道明寺独特の話し方なの?!
「私から少しお話をしてもよろしいですか?」と西田さんが話し始めた。
「司様が記憶を失われてからですが、牧野さんには誓約書にサインをいただき、道明寺家の監視下に置くことを決めました。しかし予想外だったのは牧野さん、あなたが思いの外とても優秀だったことです。」
優秀って言われるのは嬉しいけど、予想外に思いの外ってひどくない?
「あの後、優秀な成績で英徳高校を卒業され、そのまま英徳大学に内部進学、特に留学経験がないのに、語学力は素晴らしいものだったとか。英徳大学は経済学部を首席で卒業し、そしてそのまま道明寺財閥に就職しましたが、そこから3年間NYにいましたね。」
道明寺は外に向けていた視線を、話し始めた西田さんに向けていたけど、あたしがNYに3年間いたことを聞いた時は、少し驚いた顔をした。
「そうですね、入社してすぐにNY本社勤務でしたが、メールルームスタッフから始めて、最後の1年間は楓社長の秘書をしていました。」
ババァの秘書なんかやってたのか…。と道明寺は呟くけど、西田さんはそのまま話し続ける。
「NYで楓社長の秘書をやっている間も優秀だったようで、元々の明るく前向きな性格もあったんでしょうが、名前の通り、根性逞しかったようで。
取引先の役員たちの趣味嗜好、家族構成までインプット出来る頭の良さ、パーティーでの会話もスムーズに進む思考の回転の速さ、今どき珍しく誰にでも阿ることなく接する姿と人柄に惹かれる財界人も多くいるそうです。
米国一、二位を争う大企業の社長ともお知り合いですしね。」
チラリと西田さんがあたしを見る。
なんなの?これ褒められてるの?ちょいちょい嫌味のようなものを感じるけど、これも道明寺独特の言い回し?
「それに、私が見て知り得る限りですが、牧野さんは誓約書にサインをしたものの、道明寺の監視下に置かれることを望んで受け入れ、自ら勉学に励み、仕事にも邁進していたように見受けられましたが。」
嫌だな、この人。全部分かってて言ってる気がする。
「ちょっと待て。その前に、誓約書だの監視下だの、どういう事だ?なんで牧野にそこまでする?」
「そこは西田、あなたが説明なさい。」
突然、扉が開いて部屋に入ってきた楓さんに、3人ともビクッとしてしまう。
すぐに楓さんの側に行く。思ったよりも早い帰国だ。
「楓社長、お疲れさまです。副社長はMRIの結果、問診共に異常なしとのことですが、頭を打っているので本日は入院、明日の午前中には退院とのことです。」
話しながら楓さんの荷物を受け取る。
「つくしさん、あなたもお疲れのところ悪いけれど、お茶を淹れてくださる?」
急に決まった帰国だ。時差もあるし、長時間のフライトに体も堪えるのだろう。
一つ頷いて応接セットのソファに荷物を置き、特別室に備え付けられている簡易キッチンに向かう。
後ろの方で道明寺が「つくしさん?!」と驚いている声が聞こえる。そりゃびっくりするよね。あたしもびっくりだ。
今あの場を離れられるのは良かった。
さっきから西田さんの話に突っ込みを入れていた。思考が良くない方へ働いている証拠だ。
落ち着いて、冷静に。
さすが特別室。道明寺が検査をしている間に揃えたのだろう、日本茶やコーヒー、紅茶などが置いてある。
楓さんの言うお茶は日本茶のことだ。一つ一つに思い出がよみがえり、こんな時なのに懐かしさに笑みがこぼれた。
人数分のお茶を淹れて病室に戻る。
楓さんはソファに座っていたから、その前のテーブルにお茶を置く。
道明寺と西田さんの分はベッドのサイドテーブルに。
「お茶だけは、つくしさんが淹れたものが一番美味しいわね。」
「楓さんに美味しいって言っていただけるのが、一番嬉しいです。」
穏やかに話す楓さんとあたしを見て、道明寺が驚愕の顔をしている。
「楓さん、司さんの顔がおかしなことに。」
司さん?!と道明寺が一々びっくり顔で反応している。
さっきまで不機嫌だったのはどうしたのよ!