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Re: notitle 58
[No.183] 2023/08/04 (Fri) 18:00
Re: notitle 58
牧野つくしという女は、こんなに感情を表に出す女ではなかった。
出会った頃から従順で、常に笑みを絶やさず、さり気ない気遣いが出来る女。
初めはそれが何とも居心地が良かったが、一年経ちお互いの部屋を行き来するようになると段々それが当たり前になり、まるで空気のような存在になっていった。
終わりの始まりは些細なことで、その穏やかな日常が次第に退屈になり、何か刺激が欲しいと思ったことがきっかけだったように思う。
付き合い初めの頃こそ一緒に作っていたご飯も、いつからかつくしが一人で作るようになった。
洗濯物はいつの間にか綺麗に畳んで仕舞われていて、常にアイロンのかかったYシャツに、綺麗に洗われているシーツ。部屋の埃を気にして生活することもなくなった。体の相性も良く、誘ってもつくしに断られたことは一度もなかったと思う。
同僚が自宅に遊びに来るから料理を作ってもてなすようにお願いした時は流石に断られるかと思ったが、十分過ぎるほどに尽してくれた。
つくしは何を頼んでも嫌な顔をせず文句一つすら言わずに笑顔で頷く女。
それはそう、まるで子どもを見守る母親のような。
一度そう思ってしまうと、なんだか途端に退屈なような、仕事も順調で何不自由なく生活出来ているのに、そんな日常にどこか単調で物足りなさを感じ始めた頃。
たまたま同僚と飲みに行ったバーで出会った女性と酔った勢いのままホテルへ行った。その時は流石につくしには申し訳ないと思ったものの、つくしよりも歳下で喜怒哀楽がはっきりしていた彼女に妙に惹かれ、その後も何度か会うようになった。
おねだりも俺を煽てるのも上手で、ただ微笑むだけでなく、嫌なことは嫌だと、楽しいことは楽しいと満面の笑みで話す彼女と過ごす時間は俺にとっても楽しいと思えるものだった。
つくしといるのは、つまらない。
これで結婚したらと想像したら、こんなありきたりな無難な日々を、ただ横で笑っているだけの何を考えてるのか分からない、言いなりの女と過ごすなんて真っ平ごめんだと、そう思った。
一度そう思ってしまったら退屈なつくしと会う時間は減り、自然と彼女に会うことが多くなった。次第につくしは俺の中で便利な存在になっていき、呼べばすぐに来て疎かにしていた家事を片付けてくれ、尚且つ性的欲求が溜まってる時の捌け口でしかなく、もう彼女と言える存在はつくしではなくなっていて、そして迎えた俺の誕生日。
当然のように自分の誕生日はつくしと過ごすつもりはなく、仕事を定時に終わらせて自宅で彼女と誕生日を祝った。
だからまさか、今まで連絡もしないでつくしが家に来ることはなかったから油断していたのは確かだ。でもこれで他の女の存在がバレてしまっても、もう彼女と言える存在はつくしではないのだから丁度いい。
これからは後ろめたいこともなく心置きなく彼女と過ごせる日常を迎えることが出来た日で、だからこれはつくしからの誕生日プレゼントとして受け取っておこう。
だって俺にとって、つくしは交際している彼女ではなく母親まがいの便利な家政婦なのだから。
それからすぐにSNSも電話番号もブロックして連絡手段を断った。
今まで何を言っても怒らなかったつくしだけど、もしかしたら今回ばかりは追い縋って復縁を望まれるかもしれない。でも、もしそうされてもそれには応えることは出来ないし、職場や住んでいる部屋に待ち伏せでもされていたらと思わないでもなかったが、その後つくしから何かアクションがあることはなかった。
やはりつくしにとっても、俺という存在はそこまでのものではなかったのだろう。二年間付き合って喧嘩の一つもしなかった。ただ笑ってるだけの、世話好きな女。
つくしは、それだけの女だった。
例え新しい彼女がつくしより家事が出来なくても、素直に喜怒哀楽を表す彼女は分かりやすくて、何を考えているのかと不安に思うことはなかった。
彼女は中小企業勤めで、俺と同じ財閥系に勤めるつくしと違って給料の差がないことを気にせず自尊心を埋められて、そして可愛らしく甘えてくる彼女の姿に、俺の選択は間違っていないと思えた。
部屋の隅に埃が溜まっていても、食後の食器が洗われてなくても、Yシャツがシワだらけでも、それがそこまで気にならなかったのは彼女が俺の先回りをして何かをすることはなかったから。自分のことは自分でやれと、つくしのように先回りをしてやることはない。例えお互い仕事が忙しい時でも、それは変わらなかった。
私はあなたの家政婦でも母親でもないと言い切る彼女に、つくしとの違いを見てなぜかホッとした。
それからしばらくして彼女の妊娠が発覚し、結婚することに。
そして久しぶりに会ったつくしにコートを届けた男はレストランに戻ると言っていた。
そういえば、今日はアチェロで婚活パーティーが開催されている。メープルホテル内のレストランでは初めての試みであったが、パーティーの主催が代表の友人ということもあり、更にこれを期に利用者が増えれば良いとだろうと代表の一声で営業企画部でも反対意見が出ることはなく、あっさりと使用許可が出たことを覚えている。
俺と別れてから彼氏も出来ずに、遂に婚活パーティーか。
そんなに誰かに依存して世話をしたいなら、知り合いの俺が家政婦として雇ってやれば良いのではないか。妻は妊娠中で、腹が大きくなれば家事も出来なくなってくるだろう。出産後は尚更だ。
あんな別れ方をしたのだから、金銭契約でも結んで世話をさせてやるのがせめてもの償いではないか。
そんなことを考えた俺は幸せの中で浮かれていたのかもしれない。
ここで再会するまでつくしのことなんてすっかり忘れていた。
忘れていたはずなのに、なんだこれは。
つくしは泣いて怒っていて、しかも相手は女嫌いで有名な道明寺財閥の代表だ。
殴るなんて乱暴なことをして、こんなのが知り合いだなんて評価が下がっては困るから無視しようと思ったが、コイツをつまみ出せば代表に感謝されるかもしれない。
そう思ったのに、なんだこれは。
つくしが代表の知り合い?極度な女嫌いの代表が一般人のつくしと知り合いなわけがあるかと、でも代表は躊躇うことなく俺が掴んで赤くなってしまったつくしの腕を擦り、肩を抱き寄せ心配をしている。
なんだこれは。
あんな風に怒って泣いて呆けた顔なんて俺には一度も見せたことはなかったのに。
「山田さん」
名前を呼ばれて気が付くと代表とつくしは既にいなくなっていて、秘書課の西田課長がいた。
「山田さん、代表から言伝です。今回に限り、警察には通報しません。それと、近いうちに代表から結婚祝いとして異動辞令を出すそうです。奥様も妊娠中のようですので、国内での異動になるとは思いますが、東京には二度と戻れないとご承知おきください。そして今後一切彼女の前には姿を見せるな、とのことです」
なんだこれは。
知っていたはずのつくしが、俺にはいつも笑っていたつくしが、俺の中から消えた瞬間だった。
◆
結局、あのあと新郎新婦が降りてきたと言うことは挙式が終わったということで、しばらくしたらゲストも宴会場へと来るだろうから場所を変えたほうが良いと西田にも言われたが、山本はあれきり黙ってしまって埒が明かず困っていると、クシマが何か言いたげな顔をしていた。
この男に言いたいことがあるなら今のうちにとクシマに言えば、彼女は俺に警察には連絡しないこと、相手の女性のバッグにマタニティマークのチャームが付いているから、大事にしてこれ以上ストレスになるようなことをしてはいけないと、そしてそんな状態の奥様がいるのに海外へ異動辞令なんて出してはいけないと言われた。
それを聞いた西田も同意と言わんばかりに頷くから、あとは西田に任せることにして、俺とクシマはその場を後にした。
「おい、良いのか?」
「なにが?」
「警視総監に言えばすぐだぞ」
「馬鹿じゃないの?!こんな腕がちょっと赤くなったくらい、普通は警察呼ばないから!」
「あの男だってクシマが望むならどこにでも飛ばしてやれるのに」
「私的なことで職権乱用しないで!」
「それにしたって何なんだあの男は?どうしてクシマにあんな物言いと態度をする?それなのに、なんで泣かされたのに庇うんだ?」
そう聞くとムスッとした顔をしてクシマは黙ってしまった。
とりあえず俺とクシマは場所を移すことにしたが、ここで会えたのだから喫茶店まで行く理由はない。
静かで周りに邪魔されることなく話せる所と言えばメープルホテルの宿泊棟にある執務室兼用のプライベートルームがあるから、そこへクシマを連れて行くことにした。
その途中で男のことを聞いたけれど、どうやらクシマはそこまであの男を懲らしめたいわけではないようだった。
宿泊棟の最上階ではないものの、それなりに高層階にあるこの部屋は見晴らしも良く、都内の景色が一望出来る。
部屋に入ってすぐ目の前の全面ガラス張りの窓から見えた景色に、クシマはわぁ!と声を上げて駆け寄ったが、俺が声をかけるまでしばらくぼんやりとした様子で外を眺めていた。
備え付けのコーヒーサーバーで淹れたカフェオレを出しながらクシマに座るように促すと、窓から離れて素直にソファに腰を下ろした。けれど、好きなはずのカフェオレを飲んでもクシマの落ち込んだような顔が笑顔になることはなく、そして全く口を開かない。
どうしたものかと考えて思いついたのは、甘いもの。
クシマは甘いものが大好きだ。
「あー、じゃあなんか甘いものでも食うか?」
するとクシマは横に立つ俺を見て、ソファに置いてあったクッションを抱きしめながら、ポツリと「食べる」と言った。
可愛い。
なんだよ、クッション抱えて上目遣いで頼みやがって。
彼女の言うことなら何でも叶えてやりたい。そして俺にはそれを行使出来る力もある!
「よし、じゃあ下のガーデンレストランでやってるスイーツブッフェのデザート全部持って来させるか?あとは中華レストランの杏仁豆腐はどうだ?ああ、それとさっきのパーティーでアチェロのティラミスは食ったか?まだならそれも持って来させるか」
「えっ!ちょっ、そんなに食べられないからやめて!あの、えっと、じゃあティラミスで!それだけで良いから!」
「なんだよ、遠慮すんな?甘いもの好きだろ?」
「あのね、確かに甘いものは好きだけど、食べられる分だけで良いの。食べ切れなくて残したら勿体無いし、それが食べたくて予約してレストランに来てる人にも、それで喜んでほしくて作ってくれた人にも申し訳ないから」
「……そうか?」
こんな時なんだから他人のことなんて気にせず食べたいものを頼めば良いのに。
でもこれ以上彼女の機嫌を損ねては話したいことも話せなくなりそうなので、ここはクシマの言うことを聞いておこう。
アチェロに連絡してティラミスを持ってくるよう頼んでいる間、クシマがチラチラとこちらを伺うような視線を向けてくる。
「……どうした?なんか他にも食いたいもんあったか?」
「ううん。違くて、そうじゃなくて……、あの」
「なんだよ?」
「あー、えっと。あの、あなたはミドウさん、なんだよね?」
そうだった。
俺は今、「ミドウ ジョウ」ではなく「道明寺 司」だ。
さっきの男の件もあったからか、特に何かを確認することもなしに彼女をここまで連れてきてしまったけど。
その事実を彼女が知っていたとしても、まずはどこから説明をしなければならないのか、あんなに彼女と話したいと思っていたのに何から話すべきなのか全く考えていなかったことに今さら気が付いた。
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