Re: notitle 50
[No.175] 2023/05/19 (Fri) 18:00
Re: notitle 50
手を繋ぐ。
それは、性別に関わらず幼稚園児にだって簡単に出来るだろう接触。
初めはそれすらも出来なかったミドウさん。
「そ、れは、牧野さんから?それとも、司から……?」
「前回お会いした時は彼からでしたけど……」
こうして会いに来るからには、ある程度は、あたしのことを調べているだろうと思っていたけど、流石に会っている間のことを調べるなり何かしなかったのだろうか。
あの喫茶店では、会うたびに手に触れる練習をしていたのに。
会長とお姉さんは顔を見合わせて頷き、そして何かを見定めるかのような、どこか心の奥まで見られるような、鋭い視線を向けられた。
「あなたは司のことを、どう思っていますか?ただの、友人だけ、ですか?」
どう、思ってるか、なんて。
なんて答えれば、この人たちにとって正解なのだろうか。
違う。
今はこの人たちのことではなく、ミドウさんが、どうしてほしいと言っていたか、が重要だ。
「彼は友人の一人、です」
「それなら、ただの友人だと言うのなら、なぜここ数ヶ月、司と会おうとしなかったのかしら?」
どいつもこいつも本当に。
なんで、本人じゃない誰かが聞きに来るのか。
違う。
私から遠ざけておいて、なんて身勝手なことを。
こう思ってしまうということは、やはり彼の中に何かを残したくて、女嫌いな彼にキスして抱きついて、そして一方的に遠ざけて避けて、どこかに少しでもそれが残っているなら、あたしに話をしに来てくれるんじゃないかと、期待して。
でも、それだけミドウさんはあたしに会いたいと思ってくれていたと言うことだろうか。
こうして友人や家族が彼を見て心配しているということは、そういうことだったのだろうか。
それなのに、あたしは、その希望すらも自ら潰してしまった。
きっともうミドウさんは、あたしに会いたくないと思っているかもしれない。
「それは、……ちょっと勘違いと言うか、誤解をしてしまいまして、それで彼を避けていました」
「誤解って?」
「あの……、彼が、友人たちと婚活アプリを悪用して女遊びをしているのかと……」
「あぁ、そういうこと」と、呟いたあと二人して額に手を当てて項垂れている。
「実は先日、彼のご友人たちが私と話をしたいと訪ねてきました。たまたま大河原部長も居合わせていたのですが、そこで少しだけ彼について、お話を聞きました。そのお話を聞いた時、女嫌いも嘘なんじゃないかと、結婚までの暇つぶしだったのではないかとか、そんなことを考え思っていたことを、後悔しました」
せっかくの会席料理。
きれいな飾り切りに盛付け、上品で美味しそうな香り。食べてもらう為に作られた、それなのに、誰も手を付けない。
あたしは膝の上で両手を、ぎゅっと握りしめた。そして、会長とお姉さんにしっかりと顔を向けて話す。
後悔まみれだけど、偽りのない今のあたしを、見てもらえるように。
「私は彼に直接、話を聞くこともなく憶測だけで判断し、一方的に、避けてしまったんです。
それは、……それが彼の、私に対する信用を損なうようなことなのではないかと、そこで初めて気が付いたんです。彼の友人や大河原部長から話を聞くまで知らなかったとはいえ、勝手に勘違いをして避けて、会わなくなって、こんなに時間が経ってしまった今、もう彼は私を信用も信頼も、していないかもしれない。
それでも私は、彼に会って、勘違いで誤解をして遠ざけたことを謝りたい。一度失った信頼関係を取り戻すのは難しい、かもしれません。でも、それでも私は……、自分で勝手に勘違いしたくせに、何様だとも、思います。それが私のエゴで、酷い自己満足だとも思うんですけど……、
どうしても彼に、触れることを許してくれる程に私を信頼してくれていただろう彼に、例えそれが男でも女であっても、誰に何を言われても、人を信じるということを諦めてほしくないと、そう思ってしまうんです……。うまく言えなくて、申し訳ないんですけど……」
うまく伝えられなくて、それでも今までのミドウさんとのやり取りを、ミドウさんの行動を、思いを、覚悟を、あたしが無駄にするようなことだけはしない。したくない。
「……あの子は女性だけでなく、人を、誰も信じていない。そうなってしまった原因はこちらにあります。それでも、あの子には、結婚をして欲しくて……」
「あの、なんでそこまで彼に結婚させたいんですか……?」
「そうね、もちろん家と会社を継いでほしいというのはあります。でも……、人は一人では生きていけない。親として、我が子に、頼る人なく生きていってほしくないのです。
あの子の背負うものは、とても大きいもので、親である私も家庭を省みることなく、会社を大きくするべく身を粉にして働いてきました。娘にも、望まぬ政略結婚をさせました。その結果が、」
一気に話し始めた会長は、その時ぐっと言葉を詰まらせて言い淀んだ。
なんだ、この会長の顔は。
これが冷徹で無慈悲な「鉄の女」?訪ねてきた時とは全く違う、人間味のあるような、そう、子どものことが心配で堪らないと憂うような、親の顔。
私が今日ここに来たのは口止めをされるか、ここに来てからも自分を品定めされるのかと、そう覚悟を決めて、そしてミドウさんの結婚をいかに先に伸ばせるかの、そういう話をしようと思っていたのに。
許してもらえるなら、彼とまた友人になって、そして彼の望みを叶えるべく協力したいと、そう思っていたのに。
そして、次に聞かされた話の内容に、更に私の後悔が増すことになる。
「……私は、何よりも、家族よりも仕事を優先して、子どもたちの世話を使用人たちに任せていました。そして司にも懐いてる使用人が一人いましたが、ある日、司が、……その使用人に強制わいせつに近いことをされました。ここにいる椿がすぐに気が付いて、それ以上になることはありませんでしたが、想像以上に司の心には傷が、残っていました……」
「その日は、私も学校からの帰りがいつもより遅かったの。急いでは帰ってきたのだけれど、いつもなら玄関まで迎えに来る司が来なくて、不思議に思って司の部屋に行ったわ。その時、何かが落ちて壊れる音がして……、司のイタズラか、またストレスで暴れて物を壊しでもしてるのかと、」
「待ってください!それは、その話は、私が聞いても良い話ですか?本人が私に話していいと、許可を持って話していますか?!」
何を話し始めたのかと黙って聞いていたけど、これは、かなり彼の精神的な部分の話ではないのだろうか。
なぜ女性に触れることが出来ないのか、どうしてそこまで触れられることを嫌がるのか、彼は話そうとしなかった。
話さなくても、聞かなくても、それでも彼は、ミドウさんは、あんなに顔を真っ青にして、少し触れるだけでも震えて、それでも、それでもあんなに頑張って……!
「いいえ、司に話して良いとは言われていません。でも……、」
「ダメです。お願いです。もう、それ以上は話さないでください……!先程も言いましたけど、本人から話したいと言うまで聞かずにいたことです。それを、いくらあなたが家族で親とはいえ勝手に他人に話すなど、彼がこのことを聞いたら何て思うか、分かりませんか……!?」
「話すのは、家族以外に話すのは、あなたが初めてよ……!」
「話すことが初めてとか、そんなの関係ありません!誰に話すか話さないかは、当事者である彼だけが決められることです!」
「あなたは……、あなたは、司を、何者でもなく、一人の人間として尊重してくれているのね……」
「そんなの、当たり前です!どこの誰だって、その人が何者であろうと、その権利は何人も侵してはならないことです!それが例え親であっても、家族であっても、です!彼の心も、身体も、それは彼だけのものなんですから……!」
なぜ彼はあたしを選んだ?
なぜ彼はあたしを信用した?
なぜ彼はあたしを信頼した?
なぜ彼はあたしを友人にした?
なぜ彼は、あたしが触れることを許した……?!
なぜ彼は、ここまで誰も信用も信頼も出来ない環境に置かれていたのか。
なぜ彼は、ああ、
『いつか、こんな何でもないような日常の中で、暮らしたい』
それが、こんなにも難しく、生き辛い世界で。
この言葉と、震えた身体は、
あの時、これだけは信じると決めたのに、あたしは、
あたしは、なんて酷いことを……!
堪えきれなくて涙が零れる。
何が信用だ。
何が信頼だ。
自分で彼について何も聞くこともせずに、彼と一緒に、あの穏やかな時間を終わらせたくなくて、まだしばらくはそれを共有したいと自分の感情を優先して、そして聞いてもきっと応えてくれないだろうと決めつけて、勘違いをして。
彼を、一番傷付けたのは、あたしだ。
一緒に過ごしていたあの時間と空間の中でだけは、何者でもなかったはずの彼の言葉だけを、それだけは、信じなくてはいけなかったのに。
「牧野さん、あなたは、司のことを……、」
お姉さんが言おうとしていることは分かる。ここまでくれば、あたしの気持ちなどバレて当然だ。
でも、それは今日の話とは関係ない。
『結婚なんてしたくない。それを阻止するために協力して欲しい』
その彼との約束を守る為に、あたしは行動しなければならない。
こぼれた涙をハンカチで拭って、会長とお姉さんを見据える。
がんばれ、あたし。
信用も、信頼もなくなった今、あたしに出来る精一杯を。
「私の気持ちは、今は関係ありません。取り乱したりして申し訳ありませんでした。
彼の事情は彼自身から聞きます。今は、なぜ彼の意思を無視してまで結婚を強いるかです。そこは、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「そうね、まずはそこを話さなければならなかったわ」
会長は大きく息を吐き、そして話し始めた。
「今はまだ、私も姉である椿もいますが、この先ずっといるわけではありません。椿は嫁いでいますし、私も年齢だけで言えばこの子達より先に死ぬでしょう。その時、あの子は一人になってしまう。
司の友人たちだって、いつかは結婚して家庭を持てば自然と距離は出来る。仕事が関われば友情すらも捨てなければならない時がくるかもしれない。
それでも司の背負うものが軽くなることはなく、更に重いものになるだけでしょう。その時に精神的に支えになる人がいない、ということが問題だと思っています」
Re: notitle 49
[No.174] 2023/05/17 (Wed) 18:00
Re: notitle 49
その料亭「楓」は門構えから凄かった。
語彙力を失うほどに、圧倒的。
この料亭はHPがあり、外観も内装も料理の一例もギャラリーで見ることは出来る。でも写真と実際に見るのとではこんなにも違う。
夜の暗さと、それを照らす明かりが更に陰影を深く見せ、その荘厳とした佇まいに圧倒される。
会長とお姉さんのあとに続いて、その門を潜って石畳の道を進んだその先にあったのは木造二階建て寄棟造りの建物。これは、築何百年と続く建物をそのまま使っているのだろうか。
なんだ、これは。
あたし、この格好で大丈夫なのか。
自分でここが良いとは言ったけど、オフィスカジュアルだよ、あたし。一応ジャケットは着てるけど、良いのこれ?
いや、ここで狼狽るほうがみっともない。
一緒にいるのは道明寺財閥の会長たちだ。大丈夫だから、ここまで来た。
逃げないって決めたんだから、怯えるな!
通された部屋は行く手にも分かれたうちの離れだろう一室、そのお座敷の内装は欄間から障子に畳縁、床の間も、部屋の至る所に細やかで繊細な装飾が施され、柱も深く月日を重ねてきたのだろう木の色。
重い。
何もかもが、佇まいも雰囲気も、細工の一つ一つまで、この部屋から見えるライトアップされた和風庭園の姿さえも全てが計算し尽くされ、どこから見ても、きっと美しいと思わせる。
これは、一見さんお断りだ。
こんな世間知らずの小娘が、酸いも甘いも噛み分けられるほど人生を歩めてもいないような人間がおいそれと来て良い所ではない。
そう、マナーはもちろんのことだけれど、伝統的な受け継がれてきただろう料金システムそのものが紹介という行為により、その人物との繋がりが重視され、そこにある信頼関係があるからこその、そういう全てを含めての「一見さんお断り」。
いま現代においても、この東京で「一見さんお断り」というシステムを取り入れているのは、この店がそれだけの歴史があると、そういうことだ。
お座敷に入って一歩目で足を止めてしまったあたしを、会長とお姉さんが不思議そうに見ている。
「どうしたの?」
「……いえ、筆舌に尽くしがたい風景だと、」
「ここね、このお庭が一番良く見えるお部屋なのよ」
さも当たり前かのように答えてくれるお姉さん。
この中で、あたしだけが異質、のような。
しっかりしろ、今ここでネガティブ思考はダメだ。こんなところ二度と来ることはない。きっかけは何であっても、これは幸運だ。
会長とお姉さんが並んで座り、あたしは促されるままその向かいに座ったけど、それはまるで食事選考のよう。
その間にも次々と膳が運ばれ、全て揃ったところで「呼ぶまで入らないように」と人払いがされた。
密室。
これは、あたしは何かを試されているのだろうか。
「牧野さん」
「はっ、はい!」
「そんなに緊張なさらないで。あなたと司がどのような付き合い方をしていたのか聞きたいだけなのよ」
緊張しないでと言われても、会長相手に緊張しないなんて無理だし、どのような付き合い方をと聞かれても、あたしはミドウさんの友人でしかない。でもそれは彼のことを知らなかったから許されただろう話で、本当は友人にすら、なれるような人ではないのかもしれない。
「どう、と言われましても、ただの友人ですが……」
「司に女性の友人がいると言うこと自体が驚きでしかないのだけれど」
ふぅ、と会長は一つため息を吐いた。
確かにあの極度の女嫌いを考えると驚きといえばそうなのかもしれない。長い付き合いらしい部長ですら、指一本触れることは許されていないと言っていた。
「牧野さんと司は、会った時に何をしてるの?」
な、何を……?
何って言われると、こないだキスとかしちゃったけど、今それは関係なくて、その前!その前に何をしていたのかを答えなくては。
「えと、普段は喫茶店でコーヒーを飲みながらお話をするくらいで、先日は私の部屋でお好み焼きを一緒に作って食べましたけど……」
会長とお姉さんは本当に目を見開いて驚いた顔をしたあと、二人で顔を見合わせて、そしてあたしの顔を見た。
え、なに?
二人とも驚きつつ、そして、とても真剣な顔をしていて少々こわい。
やっぱり大財閥の御曹司にお好み焼き作らせて食べたのは駄目だったかな……?
「牧野さん、あなたは本当に「ミドウ ジョウ」が「道明寺 司」だと知らなかったの?」
「そうですね。本人から聞いたのは、財閥系企業に勤めていることと年齢くらいでしたので」
「彼と会って話をしていて、何か気が付かなかったのかしら?」
それなら、初めから金持ちの箱入り息子かと、疑っていた。
『家族に無理矢理結婚させられる。
一見さんお断りのお店にも簡単に入れる。
今まで一度も人に頭を下げたことがない』
そう言っていた。
思い返してみれば、それからも高級ホテルのものや現地限定のお土産だったり、赤いスポーツカー、休む間もないほど過密スケジュールな仕事。
そうだ、彼は色々チグハグだった。
女性慣れしてないようのに、自然とエスコートしてくれていた。
服装もそう。カジュアルな洋服かと思えばブーツは海外の有名老舗メーカーのものだったり。
「それは、まぁ……、色々と疑問に思うところは多分にありました。でも、彼と約束をしていましたから」
「約束?」
「はい。聞かれても言いたくないことは言わなくていい。そして、嘘は付かない。そういう約束をして、まずは信頼関係を作っていこうと」
「でも、あなたたちは婚活アプリを通して知り合ったのでしょう?お互いに結婚の意志があることが前提の状態で、なぜ半年経っても名前を聞いたりしなかったのかしら?」
「いくら結婚の意志があったとしても、信用も信頼もない、人となりも分からない男に簡単に本名を明かすほど馬鹿な女じゃないつもりです。それに、初めてお会いした時から今まで雑誌等で拝見する姿とは見た目が全く違っていたので、その状態で道明寺 司だと彼に言われても私は信じなかったと思います」
……ちょっと待って。
てっきり今回話をしたいと言ってきたのは、彼に近付くなと、出会った経緯が婚活アプリだということを口外しないようにと警告されるのかと思ってたんだけど、違う?
婚活アプリをしていることを会長もお姉さんも知っていて、そこで知り合ったあたしと会うことを黙認していたということ?
「あの、すみません。こちらからも少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「なにかしら?」
「今の質問からすると、会長やお姉さんは、彼が婚活アプリを使うことを容認していたと、そういうことですか?
偏見でしたら申し訳ないですけれど、こういう大きな家柄の方は海外の社交界で出会ったり、良家の御令嬢とお見合いなどが常だと思っていましたが、なぜ大財閥の後継者の方が婚活アプリを……?」
すると二人は盛大なため息を吐いて、彼の今までのお見合い事情を話してくれた。
それはもう、そこまでするのかと、無言で立ち去るのは良い方で、自分はゲイだと言ってみたり、下手すれば法に触れかねないこともしたとか。
「でも婚活アプリなんて、どこの誰だか分からないし、素性だって確かなものじゃないのに、いくら姿形を変えて偽名にしたとはいえ大財閥の御曹司を引き合せるなんて、かなり危険ではないですか?」
「そうね」
「少し、事情があって」
なんとも歯切れの悪い二人。
やむにやまれぬ事情があるのだろうが、それにしても大財閥の御曹司が婚活アプリを使うことを、その親である会長が黙認しているとは思わなかった。
そしてお見合いの話と合わせれば、それは。
「それは、彼の過度なまでの女嫌いが関係していますか?」
「なぜそうなったか、本人から話はありましたか?」
「いえ、話したくなさそうだったので無理に聞くことはしませんでした。ただ、彼はそれを克服しようと頑張っていることは確かです」
「克服と言っても、お話をするだけなら仕事でも出来ます。それでは、何も解決しないのです」
「あ~、……あの、手を繋ぐくらいなら、もう出来ますけど、それ以上はまだ時間がかかるかと」
出た。二度目のびっくり顔。
なに?ミドウさんはお姉さんたちに何も話してなかったの?!
Re: notitle 48
[No.173] 2023/05/07 (Sun) 18:00
Re: notitle 48
ミドウさんは、道明寺 司。
分かってた。
あの素顔を見た時から、この人はあたしと違う世界を生きてきた人だと、だから、いつかの未来なんて夢を見たらいけないと。
突然訪ねてきた、道明寺財閥の会長に用件を問えば。
「あなたが、アプリを通じて会っていた男性のことで」
こんな小物相手に神妙な顔で話し始めた会長だけど、やはり身構えてしまう。
だって、大財閥の会長が一介の会社員に畏まって、わざわざ息子の話をしに来た。それが良い話だなんて思えるはずがない。
あたしはどこまで知っていることにすれば良いのだろうか。
あたしの本名もニックネームも教えていないのに知っている人に、隠せることがあるのか。
でも、あたしは彼自身から、その事実を教えられていない。
彼の友人だという部長から話を聞いていて、あたしが既に彼の正体を知っていることを、この人たちに教える必要はない。
どこの誰が聞いても、一般家庭出身の女が大財閥の御曹司と婚活アプリで知り合って会っていました、なんて良くは思わないはずだから。
ミドウさんの立場を考えなければ。
大事なのは、今までのミドウさんの言葉に嘘はなかったこと。
彼は結婚したくなくて、あたしに協力を持ち掛けた。
両親に、お姉さんに勧められた結婚を阻止したくて会っていた。
その為に、女の人に慣れる練習をしていた。
思い出せ。
彼が、初めて会った時に言っていたことを。
『家族も俺が女嫌いなのは知ってる。こうやって女と話してるところを見たら泣いて喜ぶ可能性だってある。俺が少しずつ女に慣れる練習をしていると言えば、結婚もすぐには迫ってこないはずだ』
彼は、お姉さんには女性と会っていることを話していたはず。
その時に女性に慣れる練習をしていると話していただろうから、結婚を勧められることなく半年間もわたしとミドウさんは会えていた。
でも、まだお姉さんに会うという話にはなっていなかった。
それなら、あたしはまだミドウさんの正体を知らないことにしておいたほうが良いのではないだろうか。
あたしは彼の女性に慣れる為の練習に付き合っていただけ。
今までも、そしてあの日、あの部屋で彼が言ったことに、嘘はなかった。
それを信じればいい。
「なぜ道明寺財閥の会長が、いま初めて会った私にそんな個人的なことをお聞きになるのか分かりかねます。申し訳ないですけれど、お話をする相手をどなたかと間違われてませんか」
「いいえ、間違っていないわ。牧野さんは、ここ半年ほどの間、頻繁に息子の司と会っていたでしょう?」
「やはりどなたかとお間違えでは?私は会長のご子息とはお会いしたことはありませんが」
「でも、あなたは「クシマ ツキノ」という名前を使っていたわよね?」
「そうですね。確かに私が利用していた婚活アプリでは、その名前を使っていました。なぜそれを知っているのかお聞きしたいところですけど、気にされているのはそこではないみたいなので、今は、あえて追求はしません。が、先程も申し上げた通り、私は道明寺 司という名前の方とはお会いしていません」
「あなたが会っていたのは「ミドウ ジョウ」でしょう?それが息子の道明寺 司だと言っているのです」
……やっぱり口止めかな?
財閥の後継者が婚活アプリを使っていたなんて恥だ!みたいな?
本人から名前すら聞かされていないんだから、そんな心配は無用なのに。
ん?
それならわざわざミドウさんが道明寺 司だって言う必要なくない?
あたしと会うことを不快に思っているなら、ミドウさんに会うのを止めるように言えばいい話で、あたしにわざわざこうして母娘二人揃って会いに来た意味は?
知らないと言ったのに、それでもミドウさんが道明寺 司だと告げる理由は……?
「……そうですか。本人からは本名も何も聞いたことはありませんでしたから、そうですか……。ミドウさんは道明寺 司さん、でしたか。
でも、だから何でしょうか?彼について何のお話をしたくていらしたのか存じませんけど、婚活アプリで会っていたことも、会っていた時に聞いた話も他言するつもりはありませんから、ご心配なく」
それだけ言うと、あたしは踵を返した。
彼と話をする前に、彼がいない場で、結婚を勧めるご家族と長時間会って話すのは危険だ。
あたしとミドウさんは、あくまで協力関係でしかなく、お姉さんに会ったら関係解消をすることになっていると気付かれたらダメなんだから。
「待って!お願い、話を聞いて……!」
あたしの足を止めようと声を掛けたのは、道明寺 椿。いや、さっきの名刺にあった名前は道明寺じゃなかったから今は結婚して性は変わっているようだけど。
彼女は縋るような視線をあたしに向けてくる。
そういえば、いつもミドウさんはお姉さんのことを気にしていた。
仲の良い姉弟なんだろうとは思っていたけど、今はそんなことは関係なくて、それよりもなぜという疑問しかない。
なぜ、あたしに話を?
なぜ、二人で?
なぜ、そんなに必死な顔で……?
なぜばかりが疑問に浮かんだところで、後ろからクラクションを鳴らされた。
こんな住宅街で、こんな大きな車を停めていたら、当然すれ違いも出来ない。
「……とりあえず、近所迷惑になるので車を退かしてもらえますか」
「じゃあ話を聞いてくれるのね!さ、乗ってちょうだい!」
え、え、え?!
違う、車を退かしてって言っただけで何で話を聞くってことに?!
お姉さんに背中をグイグイ押されて車へと促される。
運転手さんはドアを開けて、ずっと待っているし、会長はさっさと先に乗り込んでしまった。
「ちょ、話を聞くなんて、」
「あちらの車がお困りだわ。早くお乗りになって」
あたし?!乗らないあたしが悪いのか?
乗るのを躊躇っていたら、長めにクラクションが鳴らされる。
いま、この状況をどうにかするには乗るしかないのか。
嫌だ。
こわい。
でも、逃げないって決めた。
ミドウさんが、結婚したくなくて頑張っていたことを無駄にしたらいけない。
こうなったら、どういうつもりで来たのか、はっきりさせてやる!
「分かりました。乗ります!」
リムジンの中は部長のおうちのと比べると内装が少し豪奢な感じがした。
部長のおうちのリムジンはカウンターがあって、そこにお酒が並んでたりしたけど、このリムジンはカウンターはなく、対面で座席が並べられていて、その座席は白の革張りで座り心地は抜群、それはまるでリクライニングチェア。
これが本当に車の座席なのか、リムジンも色々とあるんだなと思っていたら、お姉さんが話し始めた。
「リムジン、初めてでびっくりしたでしょう?」
「あ、いえ。初めてではないので、そこまで」
「え?」
「あの、私の上司が大河原財産の御息女で、何かと気にかけてくださるんです」
「滋ちゃんね!そっか、あなたは大河原財閥に勤めてたわね」
やっぱりそこまで知ってるんだ。
本当に個人情報保護法どうなってんの?
……あっ!
会社のエントランスホールで彼に、道明寺 司に会ってるんだ、あたし……!
何で今まで忘れてたんだろう。
あれは株主総会の前で忙しくて、大河原財閥と道明寺財閥とで大型リゾート施設の開発共同企画が持ち上がっていた頃。
あの時、エレベーターの中でミドウさんと同じコロンの香りがしたのを覚えている。そして立ち止まって秘書さんに言われるまで立ち去らなかったのは、あたしに気付いたから?
流石にあそこで会ったのは偶然だろうけど、それならミドウさんはあたしの職場を知っていることになる。
ミドウさんは、あたしの名前も知ってたのかな。
いくらなんでも大財閥の御曹司が人と会うのに、素性の分からない人と迂闊に会ったりはしないだろうから、もしかしたら初めから本名くらいは知っていたのかも。
……あれ?
ミドウさんは何で婚活アプリを使ってたんだっけ?
そもそもに花沢さんは、アプリの責任者。
ミドウさんが誰だか知っていて、あたしがモニターをしていることも知っていた。
あたしは彼と二回目に会う前、花沢さんに「ミドウさんは女嫌いで結婚を阻止する為に協力するつもり」とも報告している。
花沢さんは友人であるミドウさんが女嫌いで結婚したくないことも知っていて、それでも婚活アプリを使って彼自身に女性と会わせていた理由は?
なぜ花沢さんは、あたしがモニターをしていることを知っていたのに、半年間も結婚をするつもりのないミドウさんとあたしが会うことを止めなかったんだろう……?
「……きのさん、牧野さん?」
「あっ、すみません。何でしょうか」
こんな時なのに、考え事に集中してしまった。
向かって座っている会長とお姉さんが、あたしの顔をジッと見ていて、なんとも気まずい。
「お夕飯は、もう召し上がったかしら?」
「いいえ、まだですけど…」
「イタリアンレストランの「アチェロ」とかどうかしら?赤坂の「楓」でも良いし、青山の「エラーブル」もなかなか美味しいけれど、どこがよろしいかしら?」
……あたしは本当に何で今まで気が付かなかったんだろう。
いま会長の口から出た店名は全部、道明寺系列の飲食店だ。
ミドウさんが協力する交換条件に連れて行ってやるって言えたのは、そういうことだったのか。
店名が全部、会長の名前である「楓」だ。
「メープルホテル& DJリゾートグループ」で経営しているホテルだって、みんな「メープル」が付く。
ああ、だから世界各国、日本各地の出張とお土産に、本社がNY。
だから仕事も、サービスとか不動産とか営業だの企画だの言ってたけど、もう、納得。
「あの、お話が終われば帰りますので、食事まで気を使っていただかなくても」
「すぐに終わる話じゃないの。ね?お食事、一緒にしましょう?」
にっこりと美しい顔で微笑むお姉さん。
着ている洋服は某ブランドのものだ。そしてそれを着熟せるスタイルの良さ。
眩しい。
もう、雰囲気だけでもキラキラが飛んでくる。
そして、笑顔なのに否を言わせない圧力を感じさせる言い方。
「……でも」
「ね?」
「……っ、」
「沈黙は肯定と一緒よ。さぁ、決まり!どこにしましょうか」
なんという強引さ。
少し言葉に詰まっただけで決められてしまった。きっともう初めからあたしに拒否権などなく、希望を聞かれただけでも良しとすべきか。
ええい、こうなったら美味しいご飯を楽しませてもらってから帰ってやる!
そうなれば、いま挙げられた中で一番敷居の高いお店で一見さんお断りの、料亭。
「赤坂の「楓」には、一生行けないと思っていました。私の憧れのお店です」
Re: notitle 47
[No.172] 2023/05/05 (Fri) 18:00
Re: notitle 47
今日も一日、何事もなく恙無く。
いやいやいや。なにごとがあったし、つつがないとか、ありえないでしょ。
仕事だけはキチンと熟す。仕事とあたしのプライベートは関係ないし、それが自分の人生を揺るがしかねないようなことだったとしても、上司や同僚たちにはどうでもいい話。そう思ってたのに、今週は小さなミスの連続で。
情けない。
全然キチンとなんて出来やしない。ふとした瞬間にぼぅっとしてしまうことが増えた。
情けない。
部長と話をしてから一週間。
あれから、たくさん考えた。
初めて会った日のことを、初めてミドウさんの指に触れた日、ミドウさんがくれた沢山のお土産と写真、お好み焼きとコーヒーが好きで、甘いものが苦手。
口は悪いけど優しいところ、あの温かい大きな手と、優しい笑顔と、穏やかな時間、抱きしめた時に震えた身体。
『聞かれても言いたくないことは言わなくていい。でも、嘘は付かないで。』
そう約束をした。
そして今まで何一つ、彼に嘘なんてなかった。
お互いに言わなかっただけ。
それを信じなかったのは、あたし。
考えれば考えるほど彼との関係をどうしていくべきか、分からなくなってしまった。
彼を好きなんだと気が付いた時、自分は馬鹿だと思った。
彼は恋人なんかいらない、結婚もしたくないと言っていたし、あたしも結婚をしたくないと、だから協力することになって、彼に選ばれた。
だから二人の間に恋愛感情はありえないはずだった。
それなのに好きになったなんて、不毛以外の何物でもない。
そしてミドウさんのことが好きだと気付いたあとも、考えていたこと。
『女の人と、手を繋げるようになったから。
もし、もし万が一それで女の人への認識が良い方へ変わったとしても、その時その相手はきっとあたしじゃなくても良い話。
もっと美人で、スタイルも良くて、世の中にはこんなに素敵な女性がいるんだって、彼もいつかは知るかもしれない。
結婚願望がなくて、誰かと付き合う気もなくて、会う時はいつも女を感じさせないような体のラインを強調しないボーイッシュな格好の女。
きっといつかはそんな女は霞んでフェードアウトして。そういえば女に慣れるきっかけは、大したことない雑草みたいな女だったなって、思われて終わる。』
それは、ミドウさんがどこかの御曹司とかじゃなくても同じで、人が誰かと出逢えば必ず、誰にでも可能性としてあるもの。
人は人と出逢うことをやめることは出来ない。
それでも優紀に「運命みたいな出会い方」だと励ましてもらって、ミドウさんに好きになってもらおうと、少しだけ勇気を振り絞って頑張ってみようかと思った。
恋なんてしたくない、結婚もしたくないと思っていた。
それでも好きになってしまった気持ちを、彼のことを知ってしまってからも無くすことなんて出来なかった。弄ばれたとしても、それでも彼と過ごした半年間で感じたこと、あたしの気持ちは、嘘じゃなかったから。
だから、いつか来る終わりの時までは大切にしようと思って、……思ってたのにあたしは何をした?
何もしないよりは何かを、あたしは残したかったのだろうか。
残したくて、キスをして、抱きしめてしまったのだろうか。
あたしにではなく、彼に、あたしの何かを少しでも残したかったなんて、酷く嫌な人間になったものだ。
彼のいる柵の多い世界はきっと、運命なんて不確かで人の感情で左右されるようなモノを許さない。
あたしとミドウさんの、二人で過ごせるいつかの未来はないと、心のどこかで諦めて、達観した大人のふりをした。
女嫌いが本当だという彼が、女の人と手を繋いで、キスをして、抱きしめる。
これがどういうことなのか。
自惚れていいなら、いくらでも自惚れたい。
あのキスをした時のあたしを見た瞳の熱は、あれは、あたしと同じものを持っていると錯覚させるほどの、熱だった。
ダメだ。
勘違いしちゃいけない。あたしと彼の関係は、友人の範囲を越えないものであるべきだ。それ以上でも、それ以下でもない。
あくまで、彼の結婚を阻止するまでの協力関係で、それに伴う友情だけ。
友人は、キスをしたり抱きしめたりしない。
彼は、そのことを知っているのだろうか。
女性とプライベートで話すのは二十年振りだと、初めて会った日に言っていた。それなら恋人なんていたことがなかっただろう彼が、どこまでを異性の友人として認識しているのか、分からない。
『司も、牧野さんとの関係を終わらせたくなかったんじゃないかな。お姉さんに会わせたらおしまい、そういう約束だったんでしょ?』
部長の言葉が頭の中でこだまする。
でもそれも結婚を阻止する為の手段で、お姉さんを信用させる為だけのもので、そのお姉さんに会ったら……、
そう、結局は彼と会って話をしないと何も解決などしない。
彼の気持ちも、考えてることも、他人のあたしが勝手に推し量って決めつけたらいけない。
もう何度決めつけたらいけないと、考えただろう。
分かってるのに堂々巡りで、やはり悪いほうへと考えてしまう。
彼の友人と会ってからミドウさんからメールが来てないことも、そう思ってしまう原因の一つ。
彼は、あたしがミドウさんの本当の姿を知っていたと、あの友人たちから聞いただろうか。
そして、正体を知ったから態度が変わったんだと、思われたら、
思われたらだなんて、そうじゃない。
そう思われても仕方ないことをしたのは自分だ。
彼の立場と名前を教えてもらえないからと、コソコソと隠れて後をつけるなんて、卑怯で、身勝手で、彼があたしに教えないことの気持ちも事情も深く考えもせず覗き見をして、自分の憶測だけで誤解をして、態度を変えた。
そして、あたしはもう彼らに言ってしまった。
『もう、彼を信用も信頼も出来なくなったから会うのをやめた』と、言ってしまった。
話も聞かず、確かめもせず、憶測だけで判断し、今までの半年間の信用と信頼はなくなったと、怒りと悲しみの感情に任せて一方的に。
これで、きっと彼のあたしに対する信用も信頼も、なくなってしまった。
『彼のことが好きなら、話をしなきゃ。知ることがこわいのは分かる。でも、それは必ずしも悪い方向に行くとは限らない』
また部長の声が、頭の中でこだました。
こんなあたしに彼は会ってくれるだろうか。
もう一度会って、話をしてくれるだろうか。
好きになって、なんて言わないから。
勘違いで誤解をして、あなたを傷付けたことを謝りたい。
今さらかもしれないけれど、自己満足かもしれないけど、それでも。
あなたと過ごした半年間、全てに嘘はなかったと伝えたい。
あたしは本当に、どこまでも馬鹿な女だ。
今日も仕事の帰り道、最寄り駅から自宅までぼんやりと歩いていたら、もうすぐ自宅に着く手前という所に馬鹿みたいに長い黒色のリムジンが停まっているのが見えた。
一般的な自動車販売店ではお目にかかることはないだろう車。一般人が見るとすれば、大体はテレビの中くらいだろう。
思わず、ハァーと大きなため息が出る。
あたしは一般家庭に育った、極ありふれた平凡的な人間だ。なのに、この車をテレビの中ではなく実物を見るのは何度目だろうか。
いつも部長が使う車はこういう車だ。運転手付きの。
もう今さらだからジロジロと見ることはないし、なんでどのリムジンも外装は泥はね一つもなく、いつもピッカピカに光ってるんだ、くらいのもので、慣れってこわいなぁなんて。
それでも、こんな住宅街の一角にリムジン。嫌な予感とか、そんなもんじゃない。ほぼ確信を持って、彼に関する誰かが乗ってるのではないかと思った。
いや待てあたし。違う可能性も考えよう。
勘違いをして痛い目を見たばかりだし、先入観は良くない。たまたまあたしの自宅の近くに、たまたまリムジンが停まってるだけ。
素知らぬ顔をしてリムジンの横を通り過ぎても特に何もなく、あれ?やっぱり違かった?と、あたしとは関係何一つなくて、やっぱりたまたま停まってただけだったかと自分の勘違いを恥ずかしく思っていたら、カチャリと後ろで音がした。
彼に繋がる可能性がある物を近くにして、無意識に神経を張り詰めてしまっていたのか、音一つでビクついたあたしはもう、それはもう、心臓がピョン!と跳ねるくらいには、次に聞こえてきた言葉にびっくりした。
「こんばんは。あなたは、クシマ ツキノさん?それとも、牧野つくしさん?どちらでお呼びしたらよろしいかしら」
ゆっくりと、声のした方へと振り向く。そこには女性が二人、車の横に並んで立っていた。
なに、この人たち。
なんで初めて会ったのに、あたしのニックネームと名前を……?
そんなことを思ったのは一瞬で、こういう嫌な予感に限って大抵当たる自分を恨めしく思った。
あたしの本名と婚活アプリでしか使っていなかったニックネームという個人情報を知っている人。この人たちは個人情報など容易く手に入る手段を持っていると、そういうつもりであたしの名前とニックネームを告げたのか。
それはお金と立場で、あたしのことをどうにでも出来る力を持っているとも言える。
現れるなら彼に関する誰かだろうと思っていた。
でも、まさかの人物の登場に震えそうになる足に力を入れて、姿勢を伸ばして。
逃げたら、ダメ。
この二人は見た目だけの年齢で判断したとしても、あたしの憶測はたぶん間違っていないと思う。
「あの……?」
「突然ごめんなさいね。私、こういうものです」
そう言って二人から差し出された名刺に、ああやっぱり、と思った。
そして、自分の名刺を渡す手がこんなに震えそうになったのも初めてだ。
「あの、ご用件は何でしょうか」
あたしの前にいるのは、道明寺 楓。
道明寺財閥の会長だ。「鉄の女」と呼ばれ、経営に対するその姿勢は冷徹で無慈悲だと聞く。
こわい。そのオーラに圧倒される。
ただの会社員が大財閥の会長を目の前に普段通りに振る舞うなんて無理な話で、平然としていられるわけがないのだ。
足が竦む。震える。逃げたい。
逃げたい。
でも彼のことは、彼と話をするまでは、彼自身から全てを聞くまでは、もう会いたくないと言われようとも会って顔を見て話をしたい。
だから、それまでは例え何があっても逃げたくない。
傷付けてしまった彼へ、これ以上もう人を恐れてほしくない。
それなら、あたしはここから逃げたらいけない。
だからって、どうして、どうして彼に会う前に次から次へと、……もう!
Re: notitle 46
[No.171] 2023/05/03 (Wed) 18:00
Re: notitle 46
「……は?お前ら、いま何て言った?」
「クシマ ツキノと、会って話をした。彼女は、お前の本当のことを知っていた。そう、言ったよ」
彼女の部屋で過ごしたあの日から、ニヶ月は過ぎているのに一度も会えていない。
今まで仕事だったり体調が悪かったりで一ヶ月会えないこともあった。
でも今回は違う。
明らかに避けられているような、そんな気がする。
心当たりがないわけではない。
あの日に彼女の住む部屋で、彼女と何があったかは誰にも話していない。
しばらく挙動不審だった俺に、彼女との間に何かがあっただろうことを勘付いた友人三人は、しつこく何があったのか聞いてきたが、誰にも言いたくなかった。
あれは、彼女はどういうつもりでキスをして抱きついてきたのかを、会って聞いて、話をしなければ。
あれは、友人に対してすることではないと、思ったから。
あの日に話せば良かったのに、あのあとなんとなく気まずくなってしまって、彼女にも何事もなかったかのように振る舞われてしまったから、何も聞けなかった。
自分からまさかのアクションを起こしてしまったことに、自分で自分にびっくりしていたから、やはり動揺していたのは確かで、でも彼女も返してくれたのに平然としていたから、あのことは俺ほど重要に思っているわけでもないのかとか、ぐるぐるぐるぐると、人生で初めてのことに挙動まで不審になっていたことは確かだ。
彼女は、嫌がっていなかった。
これは、俺の願望ではないはず。
それだけが救いで、でもそれならなぜこんなに会うのを避けるようなことをされているのか、誰かを好きになどなったことのなかった俺は簡単に解決策など思い浮かぶわけもなく、ただひたすらに同じところをぐるぐるぐるぐると回って考えて、また一人悩んでいた。
それでも容赦なく仕事は舞い込んでくるし、それこそ仕事をしている間はクシマのことを考える余裕はなかった。
しかし当然ながら仕事をしていない時間は、ほぼクシマのことばかり。
西田も俺が仕事だけは完璧に熟しているから何も言わないではいるが、それ以外の時間はやはり挙動不審だったらしく、何度か何があったのか聞かれた。しかし西田になぞ聞かれたところで話す理由は微塵もないし、俺から話を聞いたとしても面白がるだけだろうから無視。
車で移動する度に、助手席から振り返ってこちらの様子を見てくるのがウザくて、一振り返り毎に五回は助手席を後ろから蹴飛ばしてやる。
何度断られても彼女にまた会いたかった。
もう、ここまでくると重症だ。
なんだこれは。
それでも時間は誰にも平等に流れるし、他に気が紛れることもなく、出張に次ぐ出張。
無駄だ。もう俺がわざわざ出張で行かなくても良いように、システムを見直し再構築をして、体制を作り直す。
ババアの作った、旧態依然のままな仕組みを変えて、トップはそれぞれに任せる。今はネット環境さえ揃えばいくらでもやり取りは出来るし、いつまでも俺一人でやっているのもリスクが高い。
俺がいなくても、それぞれで判断して実行し責任を持たせる仕組みにする。
それも、あと少し。
この時もヨーロッパへと出張に行っていて、そしてイタリアにも立ち寄ったから、そういえばクシマは前に本屋で読んでいた本に載っていたレモンチェッロが可愛いと、イタリアに行くことがあったらお土産に買ってきてやると約束したことを思い出して購入。
またこれを口実に会いたいとメールをしようと、また会えないと言われたらどうしようか、でも会いたいと思う気持ちが上回って、帰国してからも暇さえあればスマホを手に取りメールの送信画面を開いて睨んでいた、そんな時。
久しぶりに類と総二郎とあきらの三人が揃って俺の家に来て、何やら神妙な顔をしているから何事かと思えば、それを聞いた時すぐには何を言われたのか理解出来なくて、もう一度聞き返しても、やはり聞き間違えでも何でもなくて、
「なんで、」
「お前に何も言わずに、しかも日本にいない時に勝手なことをして、悪かった。お前が、彼女に会えなくて悩んでるのが分かってたから、俺たちでどうにかしてやれるなら、助けてやりたいと思ったんだ」
俺はこいつらに、クシマが大河原財閥に勤めている話もしていた。
それで滋に頼んで彼女を呼び出してもらって話を聞いたら、彼女はとんでもない勘違いをしていて、そして彼女の口から出たという「大財閥の御曹司」という言葉。
こいつらも友人として俺の為を思ってしたことだから責められない。
二ヶ月経っても彼女と会う約束を取り付けらない俺に、痺れを切らしたのだろう。
結局、彼女が何か大きな勘違いをしているようだから説明しようにも、滋に個室を追い出されて、それ以上彼女と話が出来なかった。
それがこいつらの話だった。
知っていた?
クシマは、俺のことを、知っていたというのか。
いつから、いつからだ。
あの日にはもう、知っていたのか。
こいつらの言う彼女の勘違いも、本当にとんでもない勘違いで、でも確かに傍から見たらそんな風に見えてしまっても仕方がないような、あまりに居心地の良い彼女との時間と空間に浮かされて、それほどに俺と彼女の関係は危ういものだったことに気が付かなかった。
俺は彼女の名前こそ知らなかったが、クシマのことを多少なりとも知っていた。
類の部下の姉であることや、婚活アプリをしていた理由も知っていて、勤め先も知っている。
それなのに、俺は彼女に自身のことを何も教えなかった。
聞かれなかったからと言えば、そうなのだけれど、彼女自身のことに関して、俺は知り得る状況と環境にあったことに多少なりとも罪悪感を持っていて、それなのに彼女に俺のことを教えるのを躊躇ってしまった。
彼女の前では何者でもなかったはずの俺なのに、フェアではなかった。
いつどこで俺の素性を知ったかなど、どうでもいい。
問題はそこではなくて、彼女が誤解していることを、違うんだと説明しなければならない。
俺を、何も言わない俺を信用して信頼して、俺の話に協力してくれていた彼女。きっと聞きたいこともたくさんあったはずなのに聞かないで、俺を、信じてくれていたのに。
何も言わない、何も聞かない彼女に甘えて、触れられるようになったことに喜んで、クシマを好きになって、浮かれて、
……俺は、馬鹿だ。
今まで俺は、彼女の何を見ていたと言うのか。
彼女を信用して信頼しているなら、俺のことを、俺の素性を明かして話せば良かったのに、今までのことが俺を躊躇わせた。
人は、欲深い生き物だ。
一つ与えれば、調子に乗って次から次へと要求してくる。そして、虎視眈々と隙を狙って蹴落とす算段をしている。
信用出来る人間などいない。
幼い頃からの友人たちだって、いくら気心が知れているとはいえ、仕事が関われば友人という立場を越えて足をすくわれる日が来るかもしれない。
親でさえ、俺を会社の駒の一つとしか見ていない。
誰も、何も、自分自身以外を、信用してはいけない。
俺を守る為には不用意に弱みを握られないようにしなければならない。
唯一は女嫌い。それすらも、強みにして、男色などという噂だって利用してやる。
だから、何者でもない俺は、彼女の隣にいる時だけが救いだった。
彼女の前でだけは、本当の、嘘偽りのない俺だった。
それなのに、彼女の信用と信頼を、おざなりにして、甘えて、
俺は、逃げた。
話すことから逃げた。
大事なら、大切にしたいなら、彼女と一緒に同じ時間を過ごしたいと思ったなら、話さなければいけなかったのだ。
好きになってもらおうと行動するなら、まず始めに話すべきことだった。
それが彼女に対する最大の、誠実だったのに。
彼女は、もうこんな俺とは会ってくれないだろうか。
こんなに不誠実で、隠し事ばかりの俺を、好きになんか、なってくれるわけがない、だろうけど。
それでも、好きになってくれなくても、彼女とおしまいになんかしたくない。
俺が俺である為に俺には彼女が必要で、いつの間にか俺の中で彼女がこんなに大きな存在になっていたことに気付くまでに時間はかかってしまったけど、そのことを今さら、なかったことになんて出来ない。
すぐに彼女に会わなくては。
このままこわがって躊躇っていたら遅きに失する。
俺の素性を知って、態度が変わったから何なんだ。
それは、その勘違いは、俺の持っている物や見た目に対してじゃないだろうから。
クシマと過ごした半年間。
頼まれたら断れないお人好しで、よく笑って、怒って、甘いものと飯が大好きで、ブラックコーヒーが苦手で、部屋の片隅にきれいに並べられたお土産と、ミントタブレットと、小さな手と、何物にも代え難い、あの穏やかな時間。
あれは、お互いどこの誰でも何者でもない二人だけの、あの時間の中では、日常だった。
あの空間と彼女との時間は、俺の憧れであり、夢でもある。
人と時間と責任に追われて生きてきた俺の、唯一の非日常で、二人だけの日常は、他の何をなげうってでも、
一番大切にしたい全て。
Re: notitle 45
[No.170] 2023/05/01 (Mon) 18:00
Re: notitle 45
部長には全てを話した。
あたしのプライベートな話ではあったけど、やはり誰かに聞いてもらいたかった。
出会ったきっかけから、進にも優紀にも話せなかったミドウさんの本当の姿を知ってから、あたしの部屋で一緒に過ごしたあの日のことまで。
「はぁ~、なるほどね……」
「本当に何でこんなことになったのか、私もまだ全部を受け入れられなくて。でもまさか部長まで巻き込むことになるとは思わなかったので、本当に迷惑をお掛けして申し訳ありません……!」
「いや、私を巻き込んだのはあいつらなんだから、牧野さんは悪くないでしょ。あいつらがどういうつもりでこんなことしてるのか知らないけど、でも私はあいつらの友人でもある。牧野さんよりは彼らの人となりは多少知ってるつもり。だから一つだけ言わせてもらうなら、道明寺 司の女嫌いは本当の話だよ」
道明寺 司の女嫌いは本当。
彼の友人だという部長が知っている、でもあたしの中で嘘ではないかと思っていたこと。
「本当に、本当に女の人がダメなんですか……?」
「うん。美作あきらと西門総二郎は無類の女好きだけどね。司の女嫌いは社交界でも有名な話で、一部ではゲイなんじゃないか、なんて噂もあったくらいだよ。どんなパーティーでも同伴するのは彼のお母様か、お姉さんだけだし、秘書も男しかいない。
だから司が牧野さんと手を繋いだりっていう話は本当に驚いた。十年来の友人の私ですら一切、指一本も司に触れることは許されない。だから、司が女の人を騙して遊ぶなんてことは絶対にない。それは私が保証する」
部長はコーヒーを一口飲むと、他にも部長が知る限りのことを色々と教えてくれた。
「なんで司がそこまで女嫌いなのかは知らないけど、お見合いは全部自らぶち壊していくし、政略結婚なんて絶対にさせないって、その為に仕事も頑張ってるようなものだし。それでもやっぱり、あの大財閥の後継者だからね。司のご両親は結婚して子どもをってかなりしつこく言ってるみたいだよ」
じゃあ、あの女嫌いも、結婚もしたくないから阻止したいのも本当だったってこと……?
「でも、それならなんで婚活アプリなんか使ってたんでしょうか……」
「うーん、そこらへんは私も今回牧野さんから聞くまで、あいつらがそんなことしてるのも知らなかったから分かんない。でも、司が自ら進んで婚活アプリを使って女の人と会おうとするなんてことは絶対にない。何か事情があって、仕方なくあいつらと何かしようとしてたのかもしれないけど」
「それに、そこにお姉さんが出てくるのもよく分からないんですよね。彼はとにかくお姉さんのことを気にしてました。ご両親のことよりも、とにかくお姉さんに会ってくれればと言ってましたけど……」
「私と司が知り合った時はもうお姉さんも結婚してたし、個人的にもそんなに親しくはないから、そこらへんは分からない。ごめんね。でもそれもさ、もう一回会って、きちんと聞いたほうが良いんじゃない?」
すっかり冷めてしまったコーヒー。
いつもはお砂糖とミルクを入れるけど、今はブラックで飲んでいた。なんとなくブラックにしたのは、今は甘さよりも苦味を味わいたかったから。
あたしが考えていた彼らの女遊びは、あたしのマイナス思考が導き出した勘違いの可能性が高いこと、女嫌いは本当で結婚は阻止したいこと、でも婚活アプリを使って女の人と会っていたこと。
なぜご両親ではなく、お姉さんに会うことで結婚を阻止できるのか。
まだまだ矛盾していること、分からないことが多過ぎて、混乱する頭の中をすっきりさせたかったのかもしれない。
冷えたコーヒーは苦味だけじゃなくて、渋みも増したように感じた。
「牧野さんは、本当の司のことを見てたんだね」
「……え」
「牧野さんはさ、司の名前や出自、あの見た目でもなくて、司の中身そのものを好きになったっていうことだよね。
私たちのまわりは、そういう自身じゃなくて持ってるもので見られる世界なんだ。だから中身だけを見てくれる人っていうのは本当に貴重で、安心できる存在になり得る。きっと司もそうだったんじゃないかと思う。そうでなければ、あんなに頑なに嫌がって避け続けてた女の人を、牧野さんにだけは触れされるほど近くにいることを許してる」
「そうなんでしょうか……」
「司も牧野さんとの関係を終わりにしたくなかったから、お姉さんに会わせなかったんじゃないかな?お姉さんに会わせたらおしまいって話だったんでしょ?それに、司が名前を言わなかったのは、やっぱり、こわかったんじゃないかなぁ……」
「こわい、ですか……?」
部長は、少し悲しいような、淋しそうな顔をした。
「うん。……どうしてもね、こういう大きい家に生まれると周りに近寄ってくるのは利益を欲しがる人間ばっかりなんだよね。良い人のフリして、いっぱい親切にしてくれても、結局は私たちの後ろにある家や財産だけを見ていて、私たちはそれの付属品でしかない。友達だと思ってたのに裏切られたことも何度もある。だから私たちは簡単に人を信じない。そして、人を損得で見ることに慣れてる」
誰に裏切られるのか、陥れられるのか分からない世界。
損得でしか人を見られない環境。
なんて、悲しくて淋しい世界。
ミドウさんも、そうだった?
だから初めて会った時、警戒心丸出しで、不遜な態度で、一つも笑わなくて……、
「特に司はね、道明寺財閥はあまりにも大きい会社だから。一人息子だし、親からも周りからも期待されて跡を継ぐべく徹底的に教育されて育ってきてる。心を許してる友達もさっきの三人しかいないんじゃないかな。
いつ誰に足元を掬われるか分からない世界だし、それこそ一分一秒の躊躇いで無くなる契約だってある。司の背負ってるのは、社員の、社員の家族の生活そのものだから、その責任は途轍もなく大きい。
それに財閥って結局は家族経営みたいなもんだから、後継者に対する期待も大きい。おばさまの後継者を望む気持ちも分からないでもないけどね」
「それがこわいのと、どう繋がるんですか……?」
「本当の名前と姿を知られたら、自分を見る目や態度が変わるかもしれない」
「それは、」
「ないとは言い切れない。これは牧野さんがどうとかいう話でもないよ。何度信じようとしても何度も裏切られたことのある人が、もう一度誰かを信用しようと思うことは、難しい」
それは、あたしも嫌と言うほど知っている。
あたしだって散々過去の彼氏たちに裏切られて、離れていった。
男は、信用出来ない。
みんな最初は優しいのに、だんだんあたしを疎ましがる。
そして、優しい顔をして浮気をする。
だからもう、男は懲りごりで、結婚だってしたくない。
だから、
だから、ミドウさんに出会った。
女嫌いのミドウさんが、女のあたしに触れて、手を繋いで、キスをして、抱きしめて。
それは、彼があたしを本当に信用して信頼してくれていて、だから近くにいることを、触れることを許してくれていた?
それなのに、あたしは彼に何も聞けずに、自分が傷付くのがこわいからと、あからさまに彼を避けた。
二回目に会った時、赤い車から降りてきたミドウさんを見て、彼が何者であろうと、それで態度を変えるのは違うと思っていたはずなのに。
お互いの、何者でもなかった二人の、半年かけて築いたはずの信用と信頼を、あたしは信じないで、
そして彼の正体を知った時、その事実だけを見て話もせずに決めつけた。
それが彼を傷付けることだと気付きもせずに、もう何も考えたくないと、
……あたしは、逃げたんだ。
「部長……、あたし、彼に酷いことをしてしまったかもしれません……」
「ね、牧野さん。彼のことが好きなら、会って顔を見て話をしなきゃ。知ることがこわいのは分かる。でも、それは必ずしも悪い方向に行くとは限らない。だから、彼に全部話して、話を聞いて、気持ちを伝えて、泣くのはそれからでも良いんじゃない?」
「……部長、」
「ほら、今日は類くんの奢りだから遠慮しないでデザートもっと食べちゃおう?フルーツグラタンとかどう?ワインも頼んじゃう?」
フルーツグラタンって何?とか、お酒はすぐ酔っちゃうから遠慮したいとか色々思うところはあったけど。
今日は、今日だけは部長に甘えて、この「プティ・ボヌール」で少しだけ非日常を楽しんで、そしてもう少し気持ちの整理が出来たら、ミドウさんに連絡をして、話をしなければと思った。
Re: notitle 44
[No.169] 2023/04/30 (Sun) 18:00
Re: notitle 44
白と黒の部屋に、あたしと花沢さんの会話だけが音だった。
そして心臓と血液の流れるようなドクドクとした音は、動揺しているあたしの中だけで聞こえるものだと分かっていても、この状況に逃げ出したくて震えそうになる足にグッと力を入れて踏ん張った。
例え部長がいたとしても、この人たちの目的が分からない以上、弱みは見せない。動揺も見せたらいけない。
あたしは、ミドウさんの本当の名前も、何も知らない。
大丈夫。
がんばれ、あたし!
「ミドウさん、のことですか?」
「うん」
「モニターの件なら終わりだと、先程も」
「彼はモニター対象じゃない。君が会った他の男たちとは違って、結婚目的ではなく彼とは会っていただろ?」
「それは、そうですけど……。でも対象でないなら尚更、あの人のことを今ここで花沢さんに聞かれる意味が分からないんですが」
話しながら周りをちらりと一瞥すると、胡散臭い男とチャラい男は椅子に座ったまま花沢さんとあたしの話を黙って見ていて、部長はあたしと花沢さんを交互に見て首を傾げた。
これみよがしに一つため息を吐いて話を続ける。
「そのことで、こうやって他の方を交えてまで呼び出される理由も分かりません。私は部長と食事をしに来ただけなんですけど」
「うん。だから食事の前に彼について一つだけ聞かせてほしい。それが聞けたら俺たちは帰るから、そのあとは二人で食事を楽しんでもらって構わない」
嫌だ。
何も聞かれたくない。
不安と怯えで、もうずっと心臓が痛いほどにドクドクと脈打ったまま。
でも話を聞かないことには、この人たちは帰らなさそうだし、聞いたからと言って必ず答えるとも言わなければいい。聞かれるだけなら、それで早く終わらせて美味しいご飯を食べたい。
また一つ大きなため息を吐いて、仕方ないと言った風を装って。
あと少し、がんばれあたし。
「……何が聞きたいんですか?」
「ありがとう。じゃあ一つだけ。なぜ彼と会わずにを避けるようなことを?」
本当に説明も何もなく、もう全てを知っていると言っているかのように。
まさに単刀直入とは、このことだ。
ふぅ、と細く静かに息を吐く。
動揺なんか見せるな。
あたしの考えたことが、彼らが女性を誑かして遊んでいることが本当だったらと想定して話さなければならない。
そして本人がいないところで、こんな風に不躾に聞いてくる人たちを信用しない。
あんたたちの、思い通りになんかさせてやらない。
「彼がモニター対象じゃないと言うなら、それこそ花沢さんには関係ないことです。それに、聞かれたことにも必ず答えるとは言ってませんよ、私は」
「……君は、強情だね」
「個人間で起こったことを当人がいない場で他人に話す理由がないだけです。いくら弟の上司とはいえ、数回会っただけの方にそれを強情などと言われるのは心外ですし、不愉快ですね。
それに彼と会わなくなったことに関しても、どうして花沢さんが知っているんです?あなたとミドウさんはお知り合いなんですか?
もし知人だと言うのなら、どうして私が初めに報告した時に教えてくださらなかったんでしょう?
そして、なぜ会わなくなった理由を本人ではなく、他人を交えてまで関係のないあなたが私に聞いてくるのかも理解出来ません!」
「……ねぇ、何の話をしてるの?ミドウさんって誰?」
部長が話に割り込んで聞いてきたけど、その問いに本当に部長は何も知らずにあたしを連れてきたのかと内心驚きを隠せない。
どういう繋がりがあるのか知らないけど、部長はこの人たちを、それだけ信頼しているということなのだろうか。
この人たち、部長にどう言い含めて私を呼び出させたのかしら。
名家の御曹司たちとあたしの繋がりなど、何もないのに。
「部長には関係ありません。申し訳ないですが、これは私のプライベートに関わる話なので」
「じゃあ、類くんに聞く。さっきから会話に出てくるミドウさんて誰よ?
今日は、みんなと牧野さんが知り合いで、久しぶりに会うのにサプライズで驚かせたいって言うから面白そうだと思って協力したけどさ。どう見てもあんたたちと牧野さん、知り合いじゃなさそうなんだけど、どういうこと?
それに、このままだと私と牧野さんの信頼関係に問題が生じかねない。どうして牧野さんを呼び出させたのか私に本当の理由を聞かせてくれる?」
「それは……、」
花沢さんはあたしから目を逸らすことなく、でも部長の問いかけに答えることも出来ずに黙ってしまった。
それはそうだろう。あたしがミドウさんの正体を知らないと思っているから、迂闊に彼の名前を出せないはず。
この人たちもあたしがここまで頑なな態度を取るとは思っていなかったのか。
でも、この三人だけで突然あたしのところに来ても、絶対に話なんか聞かなかったと思う。
この場は、部長がいるから成り立っている。
話を聞く限り、部長は完全に巻き込まれた形になるだろう。
部長が一番戸惑ってるだろうけど、あたしも今のこの状況が理解出来なくて困っているし、お腹も空いてる!
大体なぜ彼の友人たちが、あたしを呼び出す必要が?
まだ遊べると思っていた女が急に避け始めたから?それなら何でミドウさんがいないの?
どうして関係ない部長にまで嘘を吐いて巻き込むの?
もう、知っているのに知らないふりをするのも何がなんだかややこしくて、お腹が空いていつもより頭が回らないし、これ以上余計なことを考えさせないで欲しい。
もう、この時間を終わらせたい。
「それと、さっきから黙っていらっしゃいますけど、なぜここに美作商事の副社長と茶道表千家の次期家元が?お目に掛かるのは初めてではないですけど、花沢さんのお話に関係しているから同席されているんでしょうか?」
そう言いながら二人を見れば、何とも驚いたような顔を見せてきた。
彼らだって、世間的に見れば社会的地位の高いところにいるような人間だ。どこでも誰にでも顔と名前を知られていたって不思議でも何でもないだろうに。
それに彼らも一度、あたしの前に姿を見せているのに何を今さら。
「……牧野さん、もしかして、「ミドウ ジョウ」の本当の名前を、正体を知ってるの?」
「さぁ、どうでしょうね。それを聞いてどうするんです?彼の正体が何であろうと、初めから何が目的なのか分からず怪しかった。今も不信感を持っているし、信用も信頼もしていないから会うのを止めた。これで良いですか?」
「分かった。何も言わずに不躾に聞いて申し訳ない。確かに俺たちは「ミドウ ジョウ」の知り合いだ。牧野さんからのモニター報告で彼の名前を聞いた時はびっくりしたけど、いくら俺が婚活アプリの責任者とはいえ、マッチングして直接会っている間はそれこそ個人間のことだ。だからそこで俺が彼と知り合いだと教えても意味はないと思ったから敢えて言わなかった」
花沢さんがそう説明すると、やっと胡散臭い男も口を開いた。
「そうなんだよ。俺たちは彼の友人で、君のことで相談に乗っていただけ。彼からここ数ヶ月、君は何かと理由をつけて全く会ってくれなくなったと聞いた。気に障るようなことをしてしまったのか、それとも何か他に理由があってなのか分からなくて悩んでる。彼は今日どうしても外せない出張に行っていて、今この場には来ることが出来なかったけど、俺たちはそれを早く解決してやりたくて、彼に代わって君に話を聞きに来たんだ」
は?
はぁぁぁぁ?
何言ってんの、この人たち。
避けられてる理由も、どうしたらいいのかも分からずに?悩んでる?
はぁん?!
悩んでるのはこっちで、あんた達のせいなんですけど?!
「……理由も分からず悩んでるって?今、この状況だけ見てもフザケてるのは、あんたたちでしょうが……」
「え?」
「そんなに悩んでるんだったら友人なんかに来させないで自分で聞きに来なさいよ……!なによ、出張って?!」
「牧野さん……?」
「もう、いい加減にしてくれます?!あのね!この際、言わせてもらいますけど!
こっちからしてみたら、どこぞの金持ちの坊っちゃんたちが道楽で婚活アプリを使って結婚願望のある女性を誑かして遊んでるようにしか見えないの!わかる?!
初めこそミドウさんを信用しようと、女嫌いも本当だと思って協力しようと思ってたわよ!でもね!半年経ってもお姉さんに会わせようとしないし、会わせるならそれなりに本名だって知ってなきゃおかしいのに、教えようともしない!いくらなんでもおかしいと思うでしょう!
そりゃそうよね、あんな大財閥の御曹司で、いずれは親の決めた人と結婚するなら、その前に女遊びしようって、そんな風にしか見えないの!あんたたちだって様子見て楽しんでたんでしょ?!顔だけは良いから何も言わなくても女の人が近寄って来るでしょうし、お金はあるから結婚詐欺で貢がせようってわけでもなさそうだけど!それなら、今度は結婚願望のない女をその気にさせようって?!
ふざけないでよ!何も言わない教えない、そういう約束だって、そっちからしたら都合良かったでしょうね?!そんなに人の気持ちを弄んで楽しい?!楽しかった?!それならもう二度と!あたしに!一切!金輪際!関わらないでっ!」
もう、この時はブチ切れたという表現が正しかったと思う。
あんなに動揺しないように、弱みも見せないように冷静に話そうと思ってたのに。
四人ともあたしの剣幕に驚いて、ただあたしの言うことを聞くことしか出来ず、口も挟ませないほどに捲し立てた。
こんなことを言ったら本当に一切を断ち切ったも同然で、これがミドウさんに伝われば二度とメールも出来なくなる。
でも、あまりにも酷い。
こうなっているのは、あたしのせいみたいな言い方をされたことが悲しい。
そして悲しいと同時に、怒り。
やはりミドウさんは間違いなく道明寺 司で、半年経ってもその事実を教えてもらえなかった悲しみ。そして、それだけあたしも彼に信用も信頼もされていなかったというこという怒り。
いや、ほとんど八つ当たりだ。
あたしだって彼に何一つ教えてなどいないのに、彼から直接話を聞こうとしなかったないのに、それでも彼からではなく他人を通して会わない理由を聞かれたことに。
なぜ会えないのかと、彼に聞きに来て欲しかったのか、あたしは……!
「この子、スゲーな……」
ポツリとそんなことを呟いたのは、チャラい男だった。
何がスゲーのか知らないけど、フン!と男たちから顔を背けて、全てを言い切って興奮して乱れた息を整えようと深呼吸を数回して、最後は深呼吸と一緒に深い深いため息を吐く。
そして部長を見れば、まだポカンと口を開けてあたしを見ていて、でもそんな顔でも美人は美人で羨ましいと、どこか冷静に見てる自分がいた。
「部長、私はお腹が空いています」
「え、あ、うん?」
「部長は何も知らずに私をここに連れてきたんですよね?こんなことに巻き込んで申し訳ありません。私のプライベートなことではありますが、部長には何があったのか、きちんとお話します。
なので、今はこの三人にはお帰りいただいて、まずは部長と二人で食事がしたいんですけど」
「……うん。うん!部下の話を聞くのも上司の努めよね!オッケー、そういうことなんで、あきらくんたち今日は帰ってね!牧野さんに一つ聞いて答えてもらったから、もう良いよね?
あ、類くん奢ってくれるの?!ありがとう~!はい、さようなら!」
グイグイと両手を張って彼らを部屋から追い出そうとしてくれている部長。
強引で、いつも体当たりしてくるところは直して欲しいと思っていたけど、今回ばかりはそれがなんと心強いことか。
今この中で信用出来るのは、部長だけだ。
「えっ、いやいやいや!この状況で帰れるかよ!著しく誤解してるぞ、この子!」
「あきらくん、うるさい!」
「滋、せめてもう少しだけ話をさせてくれ!これじゃあ司が可哀想だろ!」
「司?!なんで急に司の名前が出るわけ?司が可哀想とか知らないわよ。そっちはそっちで何とかしなさい!本当に私の大事な部下に何してくれちゃってんのよ西門!」
彼らも、あれだけ言わないように気を付けて話をしてただろうに、結局彼の名前を言っちゃってるし!
いや、あたしもさっきミドウさんのことを「大財閥の御曹司」とか言っちゃった気もする。
ぎゃあぎゃあと騒ぐ男三人を追い出してくれた部長。
このあとも心穏やかとは言えなかったけど、部長のおかげで料理が美味しいと感じることが出来たのは、食事が終わるまで何も聞かずにいてくれたからだと思う。
そして食後のコーヒーを飲みながら、あたしの話を静かに聞いてくれた。
最初から、今までを全部。
Re: notitle 43
[No.168] 2023/04/29 (Sat) 18:00
Re: notitle 43
今日も一日、何事もなく恙無く。
あれから、何かと理由を付けてミドウさんと会うことを断り続けている。
仕事が忙しいとか、親戚の法事がとか、友達との約束がずらせなくてとかとかとか。
でも、それもそろそろ、限界かもしれない。
もう最後にあった日から、二ヶ月以上経っている。
他愛無く送られてくるメールも少しずつ、さりげなく返信を遅らせて、内容も当たり障りないものへと変え、返信する回数も減らしていった。こんなに会わないことはなかったから、最近では、なぜ会えない日が続くのかといったメールも来るようになった。
返信するのも困るなら、そのまますっぱりと見切りを付けて、こんなやり取り止めれば良いのに、どうしても、
……なんとも未練がましい。
結局あの日、ミドウさんに本当のことを、どういうつもりで会っているのかを聞くことは出来なかったのは、もう終わりにしようと決めたから。
ミドウさんと過ごした半年間の楽しかったあの穏やかな時間を、最後にキスをした思い出を、きれいなままにしておきたかった。
あれだけ恋はしないと誓っていたのに、好きになるのは一瞬だった。だから、もしかしたらこの先もミドウさんよりも素敵で、この人ならと思える出会いがあるかもしれない。
その時に、後ろ向きじゃなく前向きに考えられる理由が欲しかった。
彼の言っていたことは本当かもしれない。でも、本当は嘘かもしれない。
嘘だった時に、また男に騙されたと彼を憎む気持ちを持ちたくなかった。
……いや、違う。
それは違うかもしれない。
思い出をきれいなままで残しておきたいとか、この先も前向きに考えたいとか、そんなことは本当はただの建前で、彼の口から真実を聞くのがこわくてこわくて、あたしは逃げただけ。
きれいなままで終わらせたはずなのに、あたしの気持ちは全然きれいなんかじゃなかった。
心の底に沈ませた気持ちも、信じようと思ったのに聞けなくて逃げた心も、何もかも、きれいじゃなかった。
キラキラした景色や、澄んだ空気や、穏やかな雰囲気だけが恋じゃない。
自分だけを見てほしい嫉妬心、誰にも渡したくないと思う独占欲、もっともっと彼を知りたいと思う気持ちも、全て含めて恋だと知っていたはずなのに、表面だけ取り繕って誤魔化そうとした。
そんなこともあったねと、いつか思えるほど軽い気持ちなんかじゃ、なくなっていたのに。
彼との関係を一方的に終わらせる。
それを実行しようと彼と会うことを止めてメールも減らしても、どうしても一人になると彼のことばかりを考えてしまっていた。考えたってどうしようもないし、終わらせると決めたのに考えることを止められない。それならせめて、そのメールも受信拒否の設定にして、返信するのも止めれば良いのに出来ない理由は一つ。
だって、メールを止めれば、もう、本当に終わっちゃう。
秋が近付いてきた今の季節、日も落ちると幾分過ごしやすい気候になっていて、しかも金曜日の今日、週末にしては珍しく残業がなく定時に上がれたことに少しだけ気持ちは明るく、沈みがちだった思考を別方向へと向けることにした。
社屋のエントランスを出て駅に向かいつつ、今日のお夕飯のことと、来週分の作り置きは何にしようか、冷蔵庫の中身と予算と時間配分を考えながら、のんびり歩いていた。
作り置きもなくなってしまったし、せっかく早く帰れるなら今日のお夕飯は久しぶりにお惣菜でも買うか、たまには外食も良いかな~なんて思っていたら、いきなり後ろからドン!と体当たりをされた。
誰でも突然後ろから体当たりされたらびっくりすると思う。転んだりしなかったものの、当然あたしもびっくりしながら何事かと振り向く前に聞こえた声。
「牧野さーん!このあとヒマ?ヒマだよね?!ご飯食べに行こうよ~!」
「部長!びっくりするから、いきなりの体当たりはやめてくださいとあれほど!」
「ごめんごめん!どうしても今日は牧野さんとご飯に行きたかったのに、いつの間にか退勤してたから焦って追いかけてきたの!」
「はぁ……、まぁヒマだから良いですけど。体当たりは止めてくださいね」
「やったー!車、向こうに停めさせてるから行こ!」
彼女は、大河原 滋。
大河原財閥の一人娘で、今年の四月から総務部部長に就任した人。
就任当初は親の七光りと随分言われていたけど、そんな声はすぐに消えた。
自分よりも歳上の課長達にビシバシと指示を飛ばし、初めこそ厳しい面が際立ったこともあったが、元からの性格なのかサバサバと、そしてあっけらかんとしていて、とても頼もしく豪傑と言わんばかりの彼女に好感を持つ部下は多い。
そして、あたしと一つしか歳が変わらないと知って本当にびっくりした。
すごい。尊敬する。
あたしみたいに穿った見方も出来ず、捻くれてお局枠で主任になったと思っていたあたしには、一つ歳上の部長がとても格好良く見えた。そして部長は美人だ。身長も高く、容姿麗しい。まさに才色兼備とはこういう人のことを言うのだろう。
総務部には部長以外に女性の管理職はいない。あたしは管理職ではないけど、総務の中では管理職に一番近い立ち位置にいる為か、部長には何かと気にかけてもらっていて、彼女が部長に就任して半年経った今では時間が合えば一緒にご飯でもと昼休憩や退勤後に外に連れ出されることが、しばしばあった。
「今日はねー、フランスレストランの「プティ・ボヌール」予約してるんだ!」
彼女とご飯のお供をするようになって始めこそ驚いたものの、最近ではすっかり見慣れた運転手付きの車体の長い車に乗り込み、どこに行くのかと尋ねたら。
「プティ・ボヌール」ですって?!
全ての始まりであるだろう、あのレストラン!
よりによって、あのレストラン!
でもちょっと待って、部長は予約してるって言った?
いま誘われたばかりのはずなのに、予約してた?
「……部長?もし私に予定があったらどうするつもりだったんです?」
「一人で食べに行ったけど?」
ぐぅ、と声にならなかった音が喉で鳴った気がした。
この人も財閥の令嬢で、このレストランの予約など容易いことなのだろう。突然一人減ったところで困ることもないのだ、きっと。
しかし、二度と行くことはないだろうと思っていたレストラン。
行けるのなら他のメニューも食べてみたい!
レストランのオーナーが誰で、関係者に誰がいるかを考えなかったわけじゃない。
でも突然行けることになったレストランに、まさか偶然でも花沢さんがいるわけないだろう。
週末の開放感と、程よい空腹と、メニュー開拓したいその欲求に逆らえず、沈みがちな思考を変えさせてくれるような魅惑的な誘いに惑わされ、のこのこと部長のあとに付いて「プティ・ボヌール」へ足を踏み入れたことを、あたしは猛烈に後悔した。
「な、なんで……」
レストランに着いて案内されたのは、前回と同じ個室だった。
そこには既に先客がいて。
先に入った部長を、上司だと分かっていても思わず睨むように見てしまった。
「わぁ、牧野さんこわい!」
「部長、どういうことですか」
「いや、私も頼まれただけでね?」
「……帰ります」
「待って、牧野さん!」
そう言ってあたしを呼び止めたのは花沢さん。
「話があるんだ」
「何の話ですか?モニターの件は終わりにして欲しいと半年以上前にこちらからお願いしましたけど、それに関しては花沢さんも納得していただけたかと思ってましたが」
「モニターの件じゃない」
「それなら花沢さんとはそれ以上にお話することなんてないはずですが」
個室にいた先客は、男三人。
花沢さんと、胡散臭い男と、チャラい感じの男。
これはもう、彼についての話なんだろうと推測せざるを得ない。
なぜ部長が嘘を吐いてまであたしを連れてきたのか。頼まれただけと言っていたから詳しいことは知らないのかもしれないけど、あたしを騙すように連れて来たことに不信感は募る。
あたしがミドウさんの正体に気が付いてないと思っているはずなのに、彼の友人三人が一緒にいる所に連れてこられた意味は?
初対面の人にする態度じゃないのは分かっているけど、状況があまりにも受け入れがたくて、思わず眉根を寄せて大きくため息を吐くなど不信感を持った表情と態度を隠せなかった。
「君が、牧野さんが婚活アプリで会っていた「ミドウ ジョウ」のことで話があるんだ」
Re: notitle 42
[No.167] 2023/04/28 (Fri) 18:00
Re: notitle 42
ピンポン、とオートロックのチャイムが鳴る。
がんばれ、あたし。
大丈夫。いつもと同じで、会う場所が違うだけ。
そして、それが今日で終わるだけ。
何でもないふりをして、何も知らないふりをして。
がんばれ、あたし!
そして、玄関のチャイムが鳴る。
がんばれ。がんばれ、あたし。
あたしは、何も知らない。今まで会って話していたミドウさんしか知らない。
ミドウさんの本当の姿を知っていると、思わせたらいけない。
大丈夫。
あたしは、雑草のつくし、だから。
ミドウさんと一緒にお好み焼きを作った。
予め材料だけは揃えておいて、タネは同じだけど、ホットプレートで焼くときに全部違う具材を乗せて小さいお好み焼きをたくさん作って味比べして。
ミドウさんは自分で作ったことがないらしく、お好み焼きもお姉さんが作ってくれた時に食べたきりだと言う。
それで好物ってどういうことなの?と思うけど。
シーフード、チーズ、お餅、豚肉、じゃがいも、ツナ、納豆、たらこ。
始めは上手く返せなくて生地をぐちゃぐちゃにしてたミドウさんも、だんだん上手にひっくり返せるようになって、崩さずに返せた時は嬉しさのあまりハイタッチまでした。
たくさん焼いて、二人でたくさん食べて。
食べきれなかった分はラップに包んで作りおきで冷凍することにして、粗熱が取れるまでお皿に載せて台所に置いてある。
ホットプレートとボウルと、菜箸とフライ返しと、お皿と、いろいろと片付けて洗って拭いて仕舞う。
台所で器用にクルクル動くんだなとか、先の先まで考えて使って片付けて作るなんてすごいとか、なんだかいつもしている当たり前のことを褒められて、なんだかこそばゆい。
ミドウさんは家事を一切したことがないと言った。仕事が忙しくて家の中まで手が回らないから、定期的にハウスキーパーさんが来るらしい。だから、自分のことを自分でしっかりやってるクシマは偉いなって。
ミドウさんが家事を出来ないのは、仕事が忙しくて頻繁に出張に行ってるから仕方ないことなのに。
ご飯もほとんど外食で、家に調理器具は一切なく、あるのはコーヒーメーカーくらいだとか。
お好み焼きじゃなくて、コーヒーを好物にしたら?なんてクスクス笑いながら言ったら、それならミントタブレットも好物にするか、なんてまた笑いながら話す姿に、胸が締め付けられる。
ダイニングテーブルを片付けて拭いて、二つのグラスに冷蔵庫で冷やしておいた麦茶を注いでコースターの上に置く。
お好み焼きで少し油っぽくなった口の中を麦茶ですっきりさせたかったから、コーヒーは後にした。
麦茶を注いだばかりなのにグラスの表面はすぐに結露して、溢れた雫はコースターに吸い込まれていく。
「クーラー入れてたけど、ホットプレート使ってたからやっぱり少し暑いね。お好み焼きの匂いも篭ってるし、ちょっと窓開けるね」
ダイニングテーブルから離れてリビングのベランダに繋がる掃き出し窓を開ければ、室内のクーラーで冷やされた空気の代わりに外の暑い風がレースカーテンを揺らす。
そして、窓を開けた途端にその暑い風と一緒に、劈くように重なった蝉の声と車の音、遠くに聞こえる電車の音と、近くの公園や道路で遊ぶ子どもたちの声が雪崩のように吹き込んできた。
ああ、あたしの日常はこれだ。
不意にそんなことが頭を過ぎった。
特別なことは何もいらなくて、朝起きてご飯を食べて、働いて、お風呂に入って、寝る。
おはようと、いただきますと、いってきますと、ただいまと、ごちそうさまと、おやすみなさい。
そんなことで良い。
あたしを育ててくれた家族のように、愛した人と、こんな風に何でもない日常が特別で良い。
贅沢な暮らしがしたいとか、仕事で出世してとか、そんなことじゃなくて、ただ今のこの暮らしを、大事にしたい。
そして一緒に大事にしてくれる人と、愛し合いたい。
窓を開けてもダイニングに戻らず、ぼんやり外を眺めていたあたしの隣に、いつの間にかミドウさんがいた。
そんなあたしに何を声を掛けるわけでもなく彼は隣に立っていて、そしてしばらくしてポツリと一言呟いた。
「いつか、こんな何でもないような日常の中で、暮らしたい」
涙が、あふれそうになって、ミドウさんを見ることが出来なかった。
どこまでが本当で、どこまでが嘘?
今の言葉も、嘘なの?
信じたい。
信じられない。
好き、なのに、ミドウさんを信じられない自分が嫌だ。
あたしの彼に対する信頼や信用を失くすようなことをしているかもしれないミドウさんが、あたしの更なる混乱を生む。
でも、さっきまでの穏やかな雰囲気と、いつも通りの言葉の掛け合いと、部屋の片隅に並べられた沢山のお土産と、後で渡そうと思ってキッチンカウンターに置いてあるミントタブレットと、沈黙すら心地良いこの空間が、ミドウさんが、好きで、好きで、すたすらに愛おしい。
ざあっと強い風が吹いて、レースカーテンがハタハタと音をたてて揺れて、あたしの髪の毛を巻き上げた。
「……クシマ、髪の毛が」
あたしの口元に引っ掛かった髪の毛を取ろうと、ミドウさんの指先が頬に触れて、その手の熱さに思わず顔を上げてミドウさんを見た。
思ったより近くにミドウさんの体があって、でも外で会う時はヒールのある靴を履いていることが多いから、視線はいつもよりほんの少し遠いなって思った次の瞬間、その視線は目の前にいて、そして唇に柔らかいものが当たっていた。
でもそのさり気なさと不自然さを感じさせなかった行為に、猜疑心よりも、あたしの中の欲望が上回ってそれを拒否しなかった。
だって、ミドウさんに触れたい、触れて欲しいと思うほどに、やっぱり好きで……、もっとミドウさんに触れて欲しくて、離れそうになった唇を離したくなくて、咄嗟にミドウさんの両頬に手を当てて今度はあたしからキスをした。
そうすればミドウさんもあたしを離すことなく、そのまま受け入れてくれて、ああやっぱり女嫌いなんて嘘なんじゃないかと、でもそれが嘘なら、あたしを嫌がらないでくれるなら、少しでもミドウさんを感じたかった。
だって、もう今日を最後にするから。
唇の、その唇の熱さを少しでも分けてもらって、その熱さを、日常に紛れ込んだ非日常を、忘れたくない。
好きな人の、熱を……、夏の暑さと風の熱さで誤魔化して、ミドウさんの首筋に滲んだ汗を指で掬ったら、ベランダに置いてある室外機の音が大きく鳴った。
クーラーが設定温度に合わせようと稼働を強めたのか、外からの暑い風と室内から送られる冷たい風が、あたしとミドウさんに当たる。
暑い風と冷たい風に当たって、でもそれが混ざって温くなるわけでもなく、なんだかそれがあたしのチグハグとした心の中を表しているようだった。
いつの間にか唇は離れていて、閉じていた目を開けてミドウさんの目を見たら、熱が籠ったような視線を向けられていて、その視線はまるで、あたしのことを好きだと言わんばかりの熱を、持っているように見えた。
どこまでが嘘で、どこまでが本当かなんて、そんなのは些細なことだと、今までの、あたしが見ていたミドウさんが全てで、もしそれが全部嘘だとしても、今の、この瞬間のミドウさんは、あたしにとって本物だった。
ミドウさん。
好きで、好きで、大好きなミドウさん。
だから、今だけは、このままのミドウさんでいてほしい。
今日この部屋を出るまで、あたしだけのミドウさんでいてほしい。
熱と暑さに視線を逸らせば、ミドウさんの首筋の汗が、さっき掬ったのにまた少し滲んでいた。
いつものコロンと彼が混ざった香りに誘われて、それを纏わせるように首に指先を滑らせる。そして背伸びをして彼の首筋に顔を埋めて、抱きついてみた。
その瞬間にミドウさんはビクっと体を震わせたけど、体を離されることはなく、そしてゆっくりとミドウさんの腕が、あたしの背中に回された。
いま、この瞬間だけは、ミドウさんを信じる。
抱きついた時に震えた体を抱きしめながら、そう思った。
優しく抱きしめてくれる腕を、信じた。
これが最後だから、
きれいなままで、終わりにさせて。
Re: notitle 41
[No.166] 2023/04/27 (Thu) 18:00
Re: notitle 41
車に乗る前に見た、メガネを外したミドウさんの素顔。
その顔を見た瞬間に、なんで今まで自分は気が付かなかったのか、馬鹿にも程があると思った。
知っている名前だけでもと調べてみたら簡単だった。
道明寺 司と花沢類。
この二人でウェブ検索してみれば、まず出てきたのは「F4」という単語。
そこから辿れば辿るほどに、容易く出てくる情報。SNSが発達した今、余程のことでない限り、ある程度は情報として出てくる世界だ。
道明寺 司、花沢 類、美作あきら、西門総二郎。眉目秀麗で花のような男四人組で「F4」。
ここ半年の間に、やたら規格外なイケメンに遭遇するとは思ってたけど。なるほど、それとなくさり気なく見られていたのか。
この四人、幼い頃から素行は良くなかったらしい。学生時代は暴力行為が多かったようだけど、今はそれぞれ立場もあるみたいだし、目立たないように悪巧みしてるのか。それこそ、こんな大企業や名家の御曹司なんだから、金に物を言わせて握り潰した不祥事もありそうではある。
まさに金持ちの道楽と言えるだろうか。
だから素性も名前も仕事も言わない訳だ。
なによ、メールアドレスの桜餅って。
道明寺じゃすぐにバレるかもしれないから桜餅なわけ?
……ちょっと待って。
ミドウ、ジョウ?
そこから考えること数秒。
「ドウミョウジ」を並べ替えただけじゃない!
あたしも「マキノ ツクシ」を入れ替えただけだけど、今までニックネームにそこまで意識を持っていくことはなかった。
まぁでも初めに可能性として考えた金持ちの坊っちゃん説が当たるなんて、あたしの勘もなかなかじゃないなんて自分を少しでも慰めようとしたけど、そんなことで負の思考の連鎖を止めることは出来なかった。
この人たちは結婚願望のある女性をターゲットにして遊んでいて、今回たまたま結婚願望のないあたしに、いかにその気にさせるか反応を見て楽しんでいたとか?
きっとこういう人たちはもう親が結婚相手を決めていたりするんじゃないだろうか。政略結婚とか聞くし、そうなる前に遊んでおこう的な?
ん?
家族に結婚を強要されるっていうのはあながち間違いでもなくて、女嫌い云々はともかく、まだ遊んでいたくて結婚を阻止したかったってこと?
……結婚だけは絶対にしたくないけど、女遊びはしたい?
でもそれなら女嫌いの設定は面倒じゃないだろうか。
そんな設定にしなくても今まで女遊びをしてたなら、いくらあたしが結婚願望をもっていないからって、女嫌いなんてまわりくどいことをしなくても手練手管はありそうなものだけど。
それに結婚を阻止したいのに、ご両親ではなくお姉さんを出してくる理由もいまいち分からない。
う~~~ん?
それにしても花沢さんも一緒にいたのはびっくりした。
でも花沢さんがあの婚活アプリの責任者だ。そこからターゲットを探して遊んでたのなら公私混同甚だしいけど、金持ちの道楽に理由も意味も分かりたくないし、話を聞いたとしても理解出来ない気がする。
……まさか、進まで加担させられてるのだろうか。
いや、進はそんな悪いことが出来る子じゃない。身内の贔屓目とかじゃなく、あの子は弱気なことが多いけど、筋を通す芯のあるしっかりした子だし、隠し事も下手だからそれはないだろうと思う。
きっと進が花沢さんに「プティ・ボヌール」に行きたいと言ったことが発端なのかもしれない。
そしたらきっと、全てはあたしだ。
交換条件に行きたいなんて言わなければ済んだ話で、連れて行ってくれるという話を断れば良かったのだ。なのに滅多に入れないレストランに行けることに浮かれて、花沢さんに申し訳ないと思いつつも行ってしまった。
そこで花沢さんに目を付けられたのであれば、もう自業自得としか言いようがない。花沢さんもそんなことするような人には見えなかったけどな……。
あ、あたしは男の見る目のない女だった。
花沢さんはアプリの責任者だから「ミドウ ジョウ」のプロフィールだって、どうにでも出来るのだろう。
今まで何人の女性が騙されてきたのかなんて考えても今さらどうしようもないし、いま現在で言えば、あたしに結婚詐欺や金銭的な被害はないから何かをどこかに訴えることも出来ない。
お金持ちでイケメンな人たちのまわりには自ら声をかけなくても、きっと沢山の女の人が集まるはず。だからミドウさんの正体を知ってしまった今、こんなことをしているのは明らかな犯罪になるような結婚詐欺でも、お金が目的ってことでもなく、単純に人の気持ちを弄んで楽しんでいるようにしか見えないのだ。
半年もかけて随分凝った遊びをしてると思うけど、だからといって女性を騙すようなことをするなんて許せるものでもない。
いや、決めつけは良くないのは分かってる。
まだ本人から何も聞いてないし、何を聞かされたわけでもない。自分が悪いほう悪いほうへと考えてしまう癖があるのも分かってる。
でも「聞いても答えたくなければ答えなくていい」と自分から言ってしまっているから、それを持ち出されたらもう何も言えないし、それ以上は聞けない。
こわい。
ただ、ひたすらにこわいのだ。
好きになった人に騙されていたかもしれないということが、こわい。
これが、このあたしの想像が、本当に本当だったら。
なんでこんなことになっちゃったんだろう。
あの穏やかな空気も、気まずくない沈黙も、大きな温かい手も、香りも、お土産も、全部……、
全部、嘘、だったら?
風船のように大きく膨らんだ気持ちは、彼の元へ飛んで行かないようにと括り付けた紐を必死に引っ張っていたけど。
もういっそのこと、その手を離して空へと放してしまえば簡単なのに、半年かけて少しずつ膨らんだものを割れないように飛ばされないように大事に大切にしてきたものを、本人からきちんと話を聞かずに手放すことも出来なくて。
でも悪い方へと向かう思考を止めることも出来なくて、だんだんと萎んでしまいそうなこの膨らんだ気持ちも、最後はあの人のところへ飛んでいくことも出来ずに、へちゃりと形を失くして、また心の底に落ちていくのだろうか。
今まで見えないフリをして、心の奥の奥に押し込んで蓋をして、何重にも鍵をかけて、何かを誤魔化してきた。
それを深く深く、心の底の見えないところまで沈めてしまえるように、目に見えるものは全てそこに捨ててしまえれば良い。
そして、また鍵だけが増えていく。それはまるでパンドラの箱のように、あたしの中の汚いモノの成れの果てが詰まってる。
考えても考えても、どうしても楽観的な考えには至らなくて、それでも時間はみんな平等に流れていく。
ちょっと前までは楽しみだった二週間が、こんなに気の重いまま過ごす二週間になる日が来るとは思わなかった。
ミドウさんから食べたいとリクエストされたのはお好み焼きだった。
幼い頃にお姉さんに作ってもらって食べてから、好物になったって言ってた。あんな大財閥の御曹司の好物がお好み焼き。
もうどこからどこまでが本当で嘘なのか分からない。
こんな、半年かけて作ってきた信用も信頼も、根底から覆されるような、人間不信にもなりそうなことが起こるなんて。
そもそもに出会い方からして怪しかった。
その疑いの目を最後まで持っていないといけなかったのだ。
男を見る目がなくて、お人好しで、頼まれたら断れない。自分がそういう人間だと分かっていたはずなのに。
あれだけ恋なんてしない、結婚もしなくていいと思っていたのに、それが恋だと気付いたら坂道を転がるように落ちていって、止めることなんか出来なかった。
違う。
止めたく、なかった。
ミドウさんとならと、一瞬でも夢を見てしまったから。
馬鹿すぎて自分を嫌いになりそう。
誰かに話を聞いてほしい。
どうしたらいいのか、教えてほしい。
でも、こんなこと誰にも言えない。
巻き込めない。
あたしの将来を心配してくれた両親に、それを頼まれてどうにかしてやりたいと思ってくれただろう進に、そして話を聞いて応援してくれた優紀に。
言えるわけない。
これは、あたしの問題だ。
あたしが、一人の男に恋をして、終わりにしようとしている。
それだけの話なんだから。